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とうきびを食べるからとうきびうんこが出る。

北海道民は「とうもろこし」のことを「とうきび」と呼ぶ。という知識は使い古されたケンミンショー的な話。私もそう呼んでいる。「とうもろこし」は「とうきび」だ。

で、


とうきびを食べると、とうきびうんこが出る。


あれは、とうきびをきちんと咀嚼せずに飲み込むから、消化の網目をかいくぐってそのままとうきびとしてうんこが出てくるだけのこと。とうきびうんこを想像するだけでちょっと鳥肌が立つのだけど。


以前、ある設計士に話を聞いたときに「なるほど」と思ったことがある。

彼は新築デザイン住宅を手がける設計士なのだが、プライベートで散歩中に「これは!」と思う住宅があったらその場で写真を撮ることを習慣にしているらしい。仕事の空き時間には、ほかの建築家が手がけた施工事例写真集を見ることを欠かさないんだとか。

「なぜそういうことをするのですか?」と聞くと「自分の中に蓄積されたものしか出力できませんので」と彼は答えた。

なるほどたしかに事例の蓄積がなければゼロから1を作り出すのは難しい。だいたいのデザインはだれかからのオマージュだ。模倣コピーとまでは言わないが、先人たちの仕事を知っていないとインスピレーションも湧いてこない。だからこそ彼は写真を撮るし、空き時間に設計写真集を見ているのだそうだ。

つまり、知識があるからこそ自分の中から出力情報インスピレーションが湧いてくる。言い換えれば、とうきびを食べるからとうきびうんこが出るのと同義だ。


繰り返しになるが、とうきびうんこを出すためにはとうきびを食べなければならない。これを抽象化すれば、自分の中から何かを出力するためには、それと同じ量の入力インプットをしなければならないということになる。真理だ。


だが、これはありふれた話だ。


出力するためには入力をしなければならない。おそらく、だれもが聞いたことがあるだろう。もう一度書くが、出力をするためには入力インプットをする必要がある。だれもが言っている真理だ。



しかしこれではつまらない。
みんなが言っているのだから。



これをさらに前進させるために付け加えていうのであれば、とうきびうんこを出すためにはトイレに行かなければならない、ということになる。

つまり、入力インプットしたものを出力するためには、出力する「場所」がなければならないということになる。

いくらたくさんの入力インプットをしたところで、それを披露する「場所」がなければなんの意味もないのだ。


入力してるだけでは意味がない。いつかくるであろう出力の日を「いつだいつだ」と待っているだけでもいけない。とうきびをたくさん食べたらならば、日の当たる場所に行き、ズボンをおろしお腹に力を入れて肛門から「プププッ」と、とうきびを出さなければならない。


何が言いたいかというと、せっかくとうきびを食べたのなら、とうきびうんこをみんなに見せびらかす場所を作ろう、ということである。


私にとってのトイレは、ここnoteということになる。こういうトイレ的な場所がある人はある人で、そのトイレに感謝しながらうんこをし続けるのがよろしい。ない人はない人で、自分だけの高潔なトイレを見つけるのがいいだろう。

入力インプットだけでは何も変わらない。


<あとがき>
ちょっと思ったんですが「とうきびうんこ」のことを北海道民以外の人はなんて呼ぶのでしょうか? たとえば幼少期にとうきびうんこが出たとき、私はお母さんに「ママ、とうきびうんこ出た〜!」と叫んでいました。「とうきびうんこ」は7文字なので言いやすいのですが、全国他地域のみなさんは「とうもろこしうんこ」と呼ぶのでしょうか? なぞです。今日も最後までありがとうございました。

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