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山本理顕さんと藤本壮介さんの対談

はじめに

山本理顕さんと藤本壮介さんの対談を東さんがセッティングされ、五十嵐太郎さんを招き、ゲンロンカフェにて対談が行われた。とても内容のある建設的な議論だったので記録に残しておく。(表紙の写真は東さんのXより。)

この件を見守ってきた私の考え

①理顕さんが万博リングの木材利用についてXでコメント

この時点で私も積極的な木材利用を行っている建築家として同じ疑問を持っていたので、さすが理顕さんはいいところをつくなぁ。と思っていた。そしてこの件に建築家としての考えを藤本壮介さんがどう答えるのかを楽しみにしていた。

しかしこの理顕さんの問いかけに対して藤本さんの回答は
「はい、これから考えます!」
という、建築家としての思慮深さが全く感じられない、、、更には、
「これから考える」
という設計が終わっているタイミングからしても場違いな回答であった。実務をやっているものからすると、これから考えていたら手遅れな事は明らかだった。おそらく理顕さんもこの答えにがっかりしたのだと思う。

②その後も何度かXにて藤本さんへコメントする理顕さん

その後も事あるごとに、プロデューサーとしての説明責任を果たすべきではないかという理顕さんの主張を、立場もあったのか、スルーし続ける藤本さん。(ミャクミャク頑張ってるツイート)
私は藤本さんへ対する不信感を拭えなかった。

③建築ジャーナルの記事のインパクト

そうこうしていると突然、建築ジャーナルに理顕さんと藤本さんが正月に対談した記事が載せられていた。

正直この記事の内容は衝撃的で、耳を疑うことばかりだった。そして理顕さんが一方的に藤本さんを批判しているようで、「理顕さんも少し言い過ぎでは?」と思った。理顕さんの最後のコメント「この業界にいるなら酒の一つでも持ってくるのが礼儀だよ」という言葉にも嫌悪感を抱いた人もいたはずだ。ちなみに私は建築業界云々ではなく、人として先輩の事務所にお邪魔するのであれば手土産くらいは持って行くのが礼儀だと思う。笑(わざわざ記事にする必要はないと思うが)
理顕さんは「今からでもリングを止めるのは間に合う!御堂筋でも万博ができる!」というこれまた実務をやっているものからすると、「それは無理だ」と思わざるを得ない発言をされていて、この記事を拝見した感想としては、、、
「尊敬する理顕さんが、、、老害おじさんになってしまったのか」と思ってしまった。

④対談をセッティングしてくれた東さん

そして、この記事をきっかけに、藤本さんも反論。東さんが動き、対談をセッティングされた。正直、この対談は意味を持ったものになるのか、興味がありつつ、お二人の建築家の泥試合にならないか、不安だった。

東さん・五十嵐さんのシビレるファシリテーション

観ていない方は是非とも、前編・後編を観ていただきたい。後半は有料だが有料の価値はある。特に、後半が面白い。トータル5時間弱。理顕さんも建設的な議論にするべく、明らかに論点を絞っていた。単純に藤本さんを批判するものではなく、今回の万博の仕組み自体を正すべきと主張されていた。東さんも理顕さんの発言のわかりにくいところを、直球で理顕さんに投げ返して、議論の精度を格段に上げていた。

山本理顕さんの直球

理顕さんは正直な人だ。実務をされていない方々には、ただの老害おじさんに見えてしまったかもしれない。理顕さんの投げかける主張は真っ直ぐすぎる直球で、しかも豪速球。「建築家が自らつくる建築で社会の仕組みを変える努力をしなければならない」というこれまでの理顕さんの建築家としての主調から1ミリもずれることのない主張だった。僕には「藤本壮介さん、、、俺の背中をみてくれよ」「藤本さんには建築家としての覚悟はあるかい?その覚悟があって欲しいんだよ」と言っているように思えた。

藤本さん、あなたは設計者ではありません

なかでも私が一番しびれた議論はここだった。理顕さんが「基本設計者は東畑・梓設計JV、実施設計は3工区を担当されている施工者であって、藤本さんではありません。あなたはこのPJに責任を負えない立場なんです」と。
これには驚いた。理顕さんは「建築に対する建築家としての関与がいい加減になっていないか?」と問題提起をしているのだ。おそらくこの議論を聞いてヒヤヒヤしている建築家が他にも沢山いたと思う。昨今、建築家自体のPJに対する関わり方がうわべだけになっている。設計者でもないのに設計者面をしている奴が多い。このこと自体建築家の価値を貶めていないか?そう、問うている。
理顕さんは藤本さんがプロデューサーであったとしても、自らの設計事務所に特命発注を行い、自らが設計をすべきだと主張されたのだ。そこにしっかりとした説明があれば、それは談合でもなんでもない。その価値を説明するということ自体、建築家に課された責務だ。と。
そして設計者となれば何一つ言い訳は許されないよ?その立場になって初めて責任がとれるんだよ?と。これには自分も考えさせられた。

「責任取ります!」といっても取れない

これに対して藤本さんは猛烈に反論していた。一般の人にはわかりにくかったかもしれないが、理顕さんは建築家に対して厳しい事を言っている。建築デザイナーになるな、設計者(建築士)としての責務を果たしてこそ建築家である。そう言っている。そう、デザイン監修者はどこまで行っても監修であって、設計者ではない。そこを間違えてはいけない。そう言っているのだ。そして理顕さんはご自分の設計者であるためにたくさんのリスクを背負い、いままでやってこられた。うわべだけではない建築家だから、プリツカー賞を受賞されたのだと思う。
藤本さんが「責任を取ります!」というのであれば、責任を取れる立場(設計者)になるべきだし、今回の仕組み上難しいというのであれば、その仕組みを変えるべき。それができないのであれば設計者として名を連ねるのはおかしい。そう言っているのである。

大人が子供を諭すような

未成年のころ、私も両親に偉そうな事を言っていた事を思い出した。
「責任?そんなん自分で取ります。」と未成年の私は親に生意気な口を聞いていた。親からは「責任が取れるようになってから言いなさい」とよく怒られた。
まさにこの議論はそういう事だ。
藤本さんは「私の事務所も現場にスタッフを常駐させている」とおっしゃっていたが、その事自体が設計者の価値を下げていることにお気づきなのだろうか。設計者でもないのに設計業務をやっているということだ。そこに責任はあるのですか?と問うているのだ。
理顕さんは自分にも厳しく、藤本さんにもその厳しさを求めている。でもなぜその厳しさを求めているのか?それは建築家という存在が、カジュアルであってはならず、課された責務に向き合わねば、社会から不要とされると確信しているからである。

最後に

理顕さんも藤本さんも良い万博に導くための議論を前向きにされていてとても良い会だった。建築ジャーナルの件で理顕さんに対する不信感も芽生えたが、、、この会を経て、やはり建築家としての山本理顕さんが大好きになった。
藤本壮介さんもあと1年、頑張ってほしいと思った。

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