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今度は愛妻家(2010)

行定監督の世界観には毎度圧倒される。
ということで、未鑑賞状態だった『今度は愛妻家』を鑑賞。

行定監督の世界観はいつも特別だと感じる。
なにが特別って、彼が画面の中に醸し出す光の世界。

好き嫌いが分かれるかもしれないが、僕にとっては大好物。
そして毎度といってよいほどに、人の「死」というテーマから、疑問符を投げかけて終わるという映画が多いように僕は感じている。

(あらすじ)
夫である俊介の世話を甲斐甲斐しく焼き、
明朗に振舞っていた妻のさくらは、夫から酷いことばを投げつけられて愛想を尽かし、一人で旅立ってしまった。

彼女をうるさく思っていたはずの俊介だったが、カメラマンである彼と同衾する覚悟で写真を頼みに来た新米モデルを抱くことが出来なかった。そんな彼の前に、「離婚する前に写真を撮って」と、思いがけずさくらが帰ってくるが…。
(wikipediaより引用)

はじめに言っておこう。

井上陽水の「夢の中へ」がここまで印象深く、
当分の間口ずさむことが難しくようにできる作品って
なかなかないだろうと思う。
(もうその時点で行定ワールドだなぁと痛感。)

何より、すべてのシナリオをつながる被写体の撮り方、
時間の進め方は本当に秀逸の一言に尽きる。

演者さんは、豊川悦司さんと薬師丸ひろこさん。
適任というか、薬師丸ひろこさんはあのニヒルな笑顔が
本当にはまり役と言えるだろう。

作品を通じて行定監督が伝えたかったものって、

「今ある命(いる人)を大切にしましょうね」という生ぬるいものではない。

作品中でわかるのは、あまりにも違いすぎる一人一人の人間。
さもすれば、私たちは何かの形をとった瞬間に(たとえば、結婚など)
お互いは極めて近しいと捉えてしまっているような気がする。
ただ、それに気づかずどれだけ多くの摩擦が起きているのだろうか。

劇作家の平田オリザさんも言及していたように、
本来私たちは「わかりあえないこと」からスタートするべきなんだろうし、

私自身もそういった意識でいると自然と他者への無意識な強制や
期待などを持たずにいれると日々の生活でも感じている。

また、監督は主役二人を除く演者さんを使って
何か大切なものを浮き彫りにしようとされていた。
(一人一人のキャラが濃い。)

ただ残念ながら僕はそこまでつかむことができなかった。
これは再度鑑賞した際に掴めるような気がしているので、

それは次回の機会へ。
行定監督の「春の雪」を観たときは、
すぐに三島由紀夫の著作、そして輪廻転生について
たくさん調べたような気がする。

そういう経験からも、行定監督の作品は
「これだ!」という明確なメッセージを与える感じではなくて、
作品鑑賞後に鑑賞者の想像力や思考力を信じているのだろうと感じる。

さて、いい加減「ひまわり」みたい。
そして麻生久美子さんがみたい。

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