三浦梅園とわたし⑥<完結>
三浦梅園生誕300年の今年に合わせて、江戸時代中期の哲学者、三浦梅園とわたしとの40年に渡る日々を綴ってきましたが、今回で終了です。
さて、最終回の今日、お話しするのは、梅園研究の大家、田口正治先生の次女、K様のことです。
去年の12月、三浦梅園の弟子、佐野玄遷の末裔であるS先生を、M教授が紹介してくれました。
同じく12月に、今度はO先生が、三浦梅園の末裔であるK様を私に紹介してくれたのです。
O先生は、私が「梅園学会報 第47号」に書いた文章、「梅園先生と過ごした四十年」を、K様にお読みになるよう勧めて下さったのだそうです。
理由は、私がその文章の中で、田口正治先生の『三浦梅園』を、20代の頃から現在に至るまで、何度も繰り返し読み、梅園研究の先導役として頼りにしてきたこと、梅園研究における田口正治先生のお力が、いかに大きかったかを素直に書いていたからだと思います。
私は、それまで、K様を存じ上げませんでした。
田口正治先生の奥様が、三浦梅園の末裔である三浦とき様であることは知識として知っていましたし、2019年発行の、「梅園学会報 第44号」に掲載された、K様の随筆や、ご両親(父田口正治先生と母とき様)を詠んだ短歌は読んだことがありますが、ただそれだけでした。
私にとって、田口正治先生もK様も、歴史上の人物だったのです。
ところが、O先生からのお手紙の中には、K様の、私の文章を読んでの感想のコピーが同封されていました。
そして、わざわざ感想を書いて下さったK様に対して、何かひと言でもお返事を書くようにと、K様のご住所も記されていました。
K様は、私の実家の母より数歳年長の、教養あふれるご婦人でした。
御年90歳で、今なお短歌を詠み続ける歌人です。
その上、大学者のお嬢様で、三浦梅園の末裔でもあります。
私のような怠け者がお相手のできる方ではないと思いましたが、同封されていたK様の感想を拝読しますと、お父様の学問上の功績にただ敬服するばかりの私を、好意的に見て下さっていることがわかりました。
私はその時でき得る最善のお返事を書きました。
あのような拙い文章を読んで頂けたことへの感謝と、田口正治先生への感謝と、そして三浦梅園に出会うことのできた幸運への感謝とを。
K様からはさらに好意的なお便りが届き、そして今に至るまで、K様との文通は続いています。
人との縁というものは、わからないものですね。
40年前に出会ってから、ずっと途切れずにきたO先生との縁。
年賀状のやり取りだけになっても、消えていなかったM教授との縁。
40年前に、かすかな接点があっただけのS先生と、再び繋がった縁。
そして、この度のK様とのご縁。
ご縁と言えば、もう一つ、文通を始めたことで判明した、素敵なご縁がありました。
K様とS先生とは、実はお会いになっていたことがあったのです。
S先生のお祖母様は、佐野操(操子)様とおっしゃる方で、茶道の江戸千家の高弟であり、大学の茶道部へも教えにいらっしゃる程の方でした。
藩医の家に生まれ、誇りと責任感を強く持った、気高い女性です。
K様は杵築市の男性とご結婚されたのですが、その縁談を取り持ったのが、この佐野操様だったのだそうです。
K様のご両親とも、婚家先のご両親とも、佐野操様はお知り合いだったそうですから、良いご縁だったのですね。
1960年代前半のこと、K様は杵築市の佐野医院に、操様を訪ねました。
医院の方は、いつも患者さんでいっぱいで、忙しそうです。
一方、操様のいらっしゃる茶室には、静謐でありながら、明るい澄み切った気が漂っているのでした。
歓談するなか、K様は、お屋敷の庭で遊んでいる男の子を見掛けました。
『可愛い坊っちゃんだわ』
そう思いながら、佐野家を辞したK様ですが、思い掛けなくも、それが操様との最後の面会になったのでした。
K様は私へのお手紙の中で、
「あのお庭にいた坊っちゃんは、その現在の佐野家の御当主ではないでしょうか」
とお尋ねになっていました。
「操様のお孫さまではないでしょうか」と。
メールでS先生にお尋ねすると、S先生からは、
「はい、佐野操は私の祖母です」
というお返事が来ました。
思い掛けなく、生前の祖母を知っている方がいらっしゃるとわかり嬉しい、とも。
今はもう、歴史的建造物として、杵築市の管理下にある、かつての佐野家のお屋敷のお庭で、若き日のK様と、まだお子さんだったS先生とは、一瞬の邂逅を果たしていらしたのですね。
しみじみと人のご縁の不思議さを思った出来事でした。
さて、この稿を閉じるに当たり、もう一つ、書き記しておきたいことがあります。
K様は、ご結婚されてK様になった訳で、旧姓はむろん田口様です。正治先生のお嬢様ですから。
K様がふと、お手紙の中で、『夫の曽祖父は本草学者だったそうです』とお書きになっていたのを読んで、私にはピンと来るものがありました。
もしやと思い調べて行くと、何と想像通り、その方は、「幕末日本の三大本草学者」と呼ばれるうちの一人、賀来飛霞だったのです。
なぜ私が賀来飛霞を知っていたかと言うと、賀来飛霞のお父さん、賀来泰庵は、三浦梅園の弟子だったからなのです。
K様は、三浦梅園の弟子の末裔である方の許へと嫁がれたのですね。
そして、三浦梅園の愛弟子、佐野玄遷の末裔であるS先生は、三浦梅園のことを知りたいとおっしゃっています。
今年は三浦梅園生誕300年の記念の年です。
9月には、大分県国東市で、記念の梅園学会も開かれます。
私もぜひ参加するつもりで、今旅程を組んでいるところです。
長い間、三浦梅園と私との話にお付き合いくださって、ありがとうございました。
※文中には、私の想像による創作箇所がいくつか含まれています。そのお積りでお読み頂けますよう、お願い申し上げます。