見出し画像

シジミは春の季語である。
ただし春になって忽然こつぜんと現れるわけではない。シジミが春の季語である理由は春が一番美味しいからである。
漢字では「蜆」と書く。虫偏なのは、昔は貝とかエビとかそういうものは全部虫と呼ばれていたためだ。しかしこの「見」というところに何かいかにも怪しげな由来がありそうではないか。そこで調べてみると、「海や川で見られるから」という、恐ろしく単純な理由であった。(多分諸説ある)

シジミと言えばいわずと知れた味噌汁の具の定番であり、そのライバル的存在のアサリもやはり春の季語に指名されている。
私はアサリよりシジミのほうが好きだけれど、小さな身をいちいちつまんで食べるのはちょっと面倒くさい。沖縄の方に行けばあきれるくらい大きなシジミがいるそうだが、しかしこれは味噌汁の椀に入れるどころか、それ自体お椀くらいの大きさがあるのだから困る。
その点インスタントの味噌汁ならむき身になったシジミが入っていて気軽でいい。ただしむかれて乾燥されたシジミでは、もはや春の季語とは呼べないだろう。

俳句を詠まない私でも歳時記をぱらぱらとめくってみるのはとても楽しい。季語を知っているだけで目に映る景色は俄然違って見えるのだから面白い。
俳人の長谷川櫂さんが著作の中で「 近代になって、季語と実際の季節とのずれがいっそう際立つようになった。そこで季語は実際の季節に合わせるべきだという意見が起こり、現実に合わせて季語を並べ替えた歳時記も作られるようになった。しかし、これは愚かなこと。季語ははじめから想像力の賜物であり、現実とは別のものだからだ。」と書かれている。なるほどなあと思った。
つまり一人前の俳人になるためには、インスタント味噌汁のシジミを箸の先でつまみあげ、「小さっ…」などと言っているようではいけないのである。
俳人がその箸先に見るのは春霞たなびく宍道湖しんじこである。まだ朝も早い湖は静かだ。時たま魚がはねたりカイツブリが潜る音がする。あとは静寂である。そこに一艘の小舟が浮かんでいる。小舟の上には老人が一人。その手には何やら長い竿が握られ、それで湖の底をあさっているらしい。
温かい風が吹いて湖面にさざ波が立つ。
老人を乗せた小舟はゆらりゆらりと揺れている…。
ここでようやく俳人の心は箸先に戻り、そこにつままれた小さな身の中に、確かな春を感じるのである。こうして失われゆく古き良き日本は、俳句の中にいつまでも生き続けるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?