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サヨリは美人である。
体はほっそりとして透き通るような銀白色の肌、食べればその身は上品美味で、またサヨリという名前までもが楚々として美しい。
漢字では細魚、竹魚、針魚などと表記されるが、一文字に「鱵」とも書く。箴にはやはり針という意味があり、長くとがった下あごを針に見立てているのである。
この下あごは彼女たちの生活上一体何の役割を果たしておるのかよく分からんということだから、おそらくサヨリ一流の美的センスによるものなのだろう。それが証拠に下あごの先は粋な紅色に染まっているのである。
しかし「あなたはサヨリのようですね」なんて言われても決して喜んではいけない。それはつまり「みかけによらず腹黒いのね」ということを意味するからである。

確かにサヨリは身が半透明で腹の中に黒いものが透けて見えている。これは内蔵を包む腹膜と呼ばれるもので、太陽光を遮断するために黒い色をしていると考えられている。太陽が胃腸に差し込むと食べた海藻が光合成して酸素を放出し、腹が膨れ上がってしまう恐れがあるのだ。したがって同様に腹が黒く透けて見える魚は他にもたくさんいるわけで、サヨリ一人が「腹黒い」と言われるのはおかしいのである。
これはおそらく美しいサヨリに嫉妬した何者かが流した風評なのではあるまいか。私はそれをオコゼの仕業だとにらんでいるのである。

オコゼは海の底で岩に化けて寝転がっており、たまたま頭上に魚が通りかかるとかぶりついて食べるという、大変無精な魚である。その体は寸詰まりでごつごつしており、人相は極めて悪く甚だ不細工である。
あまり不細工なので地域によっては干物にされて山に祀られている。どういうことかと言うと、山の女神はやはりとても器量が悪く、それを気にしているものだから大変に嫉妬深い。山に若い女など来ようものなら怒って荒れ狂ってしまうという。ところがオコゼの干物を一目すれば、これは驚くほど不細工なので、女神はすっかり満足して落ち着いてしまうのである。
山の女神はそれでよかったのだが、オコゼの嫉妬はいよいよ強くなるばかりである。オコゼは海の底で山の神にもいやまして激しい嫉妬に燃えている。時たま美しいサヨリなんかがスイスイ頭上を泳ぎ過ぎようものなら、きっと勘弁はしないだろう。

「さよりのように腹黒い」という比喩を使う人は今やほとんどいないと思う。古い言葉が失われていくのは哀しいことである。しかし「さよりのように腹黒い」の喩えは失われてしまっても一向かまわない言葉である。なぜならこれはオコゼが勝手に吹聴したデマなのだから。

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