踊らされた貝
貝は小洒落た皿というダンスホールの上にたたずんでいた。
フォークで軽く突くと、まるで軽快な音楽が流れ出したかのように踊り出した。
僕たちはそれを観て、はしゃいでいたのだ。
貝がまとっていた、菌という名の衣装の存在を知ることもなく。
2019年12月27日のことだった。
金曜日であるこの日を仕事納めの日にしている企業やお店は多く、忘年会にはうってつけの日。
あるイタリアンのお店で開かれる忘年会に、僕は参加した。
できれば参加したくなかった。ただ断れなかっただけだ。
提供される予定の料理のコース料金も高い。イタリアン自体そんなに好きじゃない。
しかし、見えない、もしくは存在していないかもしれないしがらみは僕の拒否権を奪い取った。
断れなかったから、行かなければならなかったのだ。
計7人が参加したその忘年会の会場となったそのお店は、イタリアンのグランプリだかコンテストだかで全国1位になったり、
1位になれなかった年はメダルを取れる順位に入賞していたり、
テレビで紹介されたりスポーツ選手がオフシーズンに来たりと、
実績のある高名なお店のようだった。
味は美味しいとは思ったが、その他の体験は、しんどかった。
料理が出てきてから次の料理が出てくるまでの時間があまりにも長い。
凝って作ってらっしゃるんだろうが、長すぎてしんどい。
そのしんどい待ち時間に、自身のお店がテレビに紹介された様子の動画を意気揚々と見せさせられて余計にしんどくなった。
お!こ~れは、なんだろ。しんどいなー。この時間何だ?早く帰りたいな~!
と、心が言っていた。
口からは言葉として発していないが、思った、の1コ上。心が言っていた。
そんな中、貝は出てきた。
野菜や他の魚と同じ皿に乗ってはいたが、貝は中央に陣取り、かつて自らを覆い被していたであろう貝殻の上にそびえ立っていた。
「貝は生きているから、躍り食いしてください」と知らされた。
しかし貝は微動だにしていなかった。
少しフォークで突いてみると、貝は踊り出した。
皿はダンスホールに、貝殻はお立ち台になったかのように、貝は踊り出した。
僕たちはそれを観て、はしゃぎだした。
貝を口にした瞬間、おたのしみは終了した。
僕は貝がそもそもそんなに好きじゃないのだ。
貝が踊ろうが踊るまいが、そもそもそんなに好きじゃないのだ。
美味しくはなかった。
憂鬱な忘年会の翌日、僕は胃を痛めた。関節も微妙に痛く、倦怠感があった。
しかしその翌日からは楽しみな家族旅行。この不調を長引かすわけにはいかない。
僕は胃薬を飲み、やりたいこともあったがやめて、ほとんど一日中大人しく横になっていた。
旅行は何とか健やかに楽しむことができた。
憂鬱な忘年会のことなど年明けとともにすっかり忘れていた新年のある日、
気がつくと忘年会参加メンバーのグループLINEに通知がたまっていた。
あの忘年会の翌日、参加者の多くが胃の不調、発熱、嘔吐、関節痛など、何かしら体調を崩していたようだった。
全員に確認した結果、僕を含めて7人中6人が体調を崩したようだ。
「あの貝なんじゃないか...」
そんな文章も出てきたが、誰も医者には行かなかったようで、本当のところはわからなかった。
間違いないのは、僕はもう二度とあのお店には行かないことぐらいだ。
高いお金も払ったが、返してほしいと、心が言った。
口から言葉で発するほどでもなかったということだ。
そして明くる日、お店から僕に電話がかかってきた。相手はシェフの奥様でホールを担当してたりデザートを作ったりしていた人。
動画を見せてくるという不要な時間をプレゼントしてくれた人だ。
もちろん僕がクレームを付けたのではない。恐らくお店の方が幹事に、忘年会参加者の連絡先を聞いてそれぞれに掛けているのだろう。
僕の気持ちは「金返せ」。
ただし相手がどう出てくるかわからないし、こっちからむやみに「お金を返してほしい」と切り出して、それが恐喝のように捉えられるのは不本意だ。
相手の出方次第では穏便に済ますことも大いに有り得る心持ちで話をすることにした。
幹事の方や参加者の一部はそのお店の方のことをよく存じているようだったが、僕は挨拶したことがあるかどうかぐらいのレベル、つまりほとんど初対面だった。
お店でも定型的な挨拶以外の会話はしていないからか、謝罪から始まる言葉もどこかたどたどしかった。
「あの、この度は、あのー、当店のあの、料理の方で、あの、お体を悪くされたとのことで・・・。あの、どのような・・・。」
「あぁ、あの食事をした翌日に胃が痛みを感じたり、胃のもたれを感じたり、関節痛もあったり、倦怠感なんかもありましたね。
特に医者には行ってないんですけどね、手持ちの胃薬を飲んで一日養生したら良くなりましたんでね。」
僕が症状を説明し終えると、急に無言の時間が始まった。
何か話しそびれたことがあったか?と思っていると、向こうから口を開いた。
「どうすればよろしいですかね?」
・・・え?
俺に聞いてる?
嘘やろ?マジで?
いや知らん知らん!
と、心が言っていた。
口からは別の言葉を発することにした。
「いや、それはお店の方が決められることじゃないですかね...」
僕はお店側から、こうこうこういう対応をさせていただきたいと思っています、という提案があるものだと思っていた。
恐らく一般的なクレーム対応なら、まずお店側から対応の提案をするものではないか?このケースは違うのか?
まぁ、クレームは入れていないのだが・・・。
予想と違う展開に戸惑っていると、向こうはさらに僕を戸惑わせてきた。
「いやいや、こういったことが初めてで、お店としてどう対応すればいいのかわからないんです。」
あー、なるほど。
いや知らん知らん!
俺はお前と何かのコンサルタント契約でも交わしたか!?
いや交わしていない。
俺はお前に「僕は知識的に頼れる存在だよ」アピールでもしたか!?
いやしてないしてない、だって定型的な挨拶以外の会話はしてないやん!
俺がクレームをつけてゴネてゴネて今に至ってるのか!?
いやつけてないつけてない。
自身がすべき対応ぐらいせめてネットで一回調べてくれ!
そしてまずはそっちから提案してくれ!!
と、心が叫んでいた。「心が言う」のさらに1コ上に行った。
戸惑いに戸惑いを重ねていると、
お店側が電話したのは僕で二人目だということを知らされた。
その一人目は、体調不良にならなかった、7人中1人の人だった。
つまり僕が最初の対応すべき体調不良者らしかった。
「医療費を返せばいいですかね?」
「いや僕、医者には行ってないので...」
不毛だ。やり取りが。進展しない。
この時間何なん?という時間を与えるプロなのかこの人は。
しんどいなという憂鬱忘年会での不満体験からの不調を経ての怒りからの苛立ち。
やり取りからして、お店側はもしかしたら僕の方から「もういいですよ、水に流しましょう」と言うのだけを待っているかのようにも思えたが、
この時点でもういいですよ、と穏便に済ますという選択肢は僕にはなかった。
いや、もしかしたら、これは罠か?
僕を苛立たせて「お金返せ!」と言わせて、それを恐喝としてこちらを責め立てた上で痛み分けにしようという腹づもりか?
勘ぐりすぎのようだが、その可能性すら浮上させるぐらいのミステリーだ。
1%未満のほぼあり得ないような可能性でも浮上した以上リスクとして避けざるを得ない。
しかし話を次のステップに進めないと、しんどい。
僕は切り出した。
「僕が似た事例で知っている話だと、レシートを持参すれば、食事代返金されているお店はありましたけどね。」
実際とあるチェーン店であった類似例だ。
あくまで事例だ。だが自身の対応を考える参考にはしてくれ、という願いはむなしく疑問文にかき消された。
「じゃあ食事代を返金すればいいってことですかね?」
なぜ僕に対応の判断を委ねるのだろう?
俺は上司か?それともやっぱり罠か!
もし「当店としてはお客様の望まれる対応をさせていただきたく存じます」という魂胆なら、明確にそう言ってくれ!
と心が叫んでも堂々巡りなので、僕の手の内の一部を明かすことにした。
「あくまで事例です。どう対応されるかはお店様の方で検討してください。
というのも、僕がここで、じゃあお金返してくださいって言うと、それが恐喝とかそういうことになりかねない。
あくまでそちらから対応を提案してください。」
「・・・、じゃあ、食事代を返金すればいいですかね?」
あ、まだ聞くか。でもこの流れなら大丈夫だ。
「それでお店様がよろしいのでしたら、そうしましょうか。僕はそれで納得できます。ドリンク代はいいので。」
これなら第三者が聞いても僕からの押しつけではなく双方の納得の上での結論であると取れる言い回しだ。
「コース料理のお代金を、ということですよね。かしこまりました。」
あぁ、かしこまってくれた。ようやく、収束した。
電話を切った後の大きな溜め息が、終わりを告げてくれた。
溜め息は疲労となって僕の全身に巻き付いた。
疲労は虚しさに姿を変え、僕の心をモヤモヤと包み込んだ。
味は一流なのかもしれないが、対応は二流、いや三流、いやもっと、八流だな。
・・・、いや、もう、どうでもいいな。
何だったんだ、これらの時間。
もしかしたらお店側は、お客様に委ねれば穏便に済ませてくれるもの、と思い込んでいたのかもしれない。
もしかしたら僕がはじめから「食事代を返してほしい」と言えば、はいよと返してくれたのかもしれない。
もしかしから本当に罠だったのかもしれない。
もしかしたら貝はそもそも不調と関係なかったのかもしれない。
かもしれない、かもしれない。
僕はあの不毛な時間というの中で、ミステリーに踊らされていたのかもしれない。
ダンスホールでフォークに突かれたあの貝のように、ただ踊らされていたのかもしれない。
僕も貝も、正しい解など知る由もない、孤独なダンサーだったのだ。
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