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父の来訪

こんにちは。
緊急事態宣言がようやく明けましたが、生活には何の変化も起こらない木賀ちお🐧です。

友達や友達の家族が経営している飲食店が通常営業になったのが喜ばしいぐらいですね。

そんな中、今日はいつ以来か忘れてしまったほど久しぶりに父が我が家にやって来ました。

今年73歳になる父は、1日に3時間ものウォーキングを欠かさない、ちょっと度を越した健康志向の人物です。

とにかく自分の健康を守ることが何よりも優先なので、コロナ時代に突入して以降私は父とは一度も会っていません。

今日も我が家に来たのは私の留守中、しかもマンションの入り口までで、私の娘の誕生祝いと、お土産にわらび餅とおはぎを持って来て即帰ったそうです。

留守中にやって来たのは、おそらく普段から満員電車で通勤している私や夫のことを高リスクだと思っているからに違いありません。

ようやく来月初旬にワクチン接種の予約が取れたらしいので、少なくともそれまでは絶対に私には会いに来ることはないでしょう。

私の人生というのは、良くも悪くも父から受けた影響が大きすぎて、父なしに今の自分を語ることは出来ません。

子どもの頃から、父のおかげで良い目にも嫌な目にも沢山あってきたことで、今の自分が作られたので、今日から少し父と私の思い出話などを書いていこうと思います。

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子どもの頃は、わがままで厳しくてすぐに暴力を振るう父のことが嫌いでした。

父は薩摩藩の郷中教育の影響が色濃く残る明治生まれの祖父と、ハンパない男尊女卑によって育てられた祖母のもと、9人兄妹の年の離れた末っ子として生まれ、超甘やかされて育ちました。

高校ではボクシングをやっていたそうですが、不良少年だったために高校を中退し、都会へ出て運送業に就き、母と知り合い結婚したようです。

親戚のおばさんから聞いた話によると、跡取り娘として大切に育てられた母の実家に払う結納金として、祖母が牛を売って作ったお金でバイクを買い、結納金をほんの少ししか持っていかなかったため、母の実家からの猛反対にあい、半ば駆け落ちのように結婚したそうです。

確かに母の実家と父の折り合いは悪く、母の実家に行くときには、同行しないことも多かったように記憶しています。

私が生まれてからしばらくすると、運送業で貯めたお金を元手に商売を始めました。
軌道に乗るまでの間は、あまり裕福ではなく、ボロボロのアパートや市営住宅で小学校低学年までは暮らしました。

家が一戸建てになったときは嬉しかったです。子ども使いの荒い父に命じられて行う庭の手入れは大変でしたが。

商売がうまく行き始めると、父はお金をどんどん使い始めました。
毎年のように買い換える車がその例です。
ケーキでも買うかのように新しい車を買ってきて、私たちを乗せるのを楽しんでいました。

父は私が小学生の時に、どういういきさつからか突然スキューバダイビングを始めたのですが、とことんハマっていたため、当時ほとんど毎週のように海に出かけていました。

苦手な父が不在となる日曜日は嬉しかったです。

しかし、高校生ぐらいからは私たちを監視するためなのか、毎回海に同行させられる羽目になりました。

海に行っても、私はスキューバダイビングをしないため、BBQとマリンジェットに乗って遊ぶことぐらいしか楽しみがありませんでした。

行きたくもない海に毎週連れていかれる地獄は、大学生まで続きましたが、そんな中で私は人間観察をするのがちょっとした楽しみでした。

バブル経済真っ只中から弾ける寸前という時代。一緒に海に行く人たちの羽振りの良さはまさしくバブリー。

スキューバダイビングは、船がなくては始まりません。その頃はクルーザーを持っている人もけっこういて、毎週若くてキレイで無愛想な女の人をとっかえひっかえ連れてくるおじさんを見るのはちょっと面白かったです。

お金がなかったら絶対にこの人はついてきていないだろうな~というのがありありとわかるような女性の表情が印象的でした。

連れてこられた女性は海では特に何もせず、BBQを知らない人と食べるぐらいなので、楽しいはずもありません。

そのおじさんのクルーザーの寝室がやけに豪華でこれ見よがしだったのをなぜか覚えています。

父は学歴こそありませんでしたが、勉強熱心で、新聞を四紙取り隅々まで読んでいたので、色々なことをよく知っていました。

父から社会で起こっていること、例えばカンボジアの難民の話や、イランイラク戦争の話など、世の中でどんなことが起きているかは、全て父から教えてもらいました。

ちょっと今日はつかれたのでこの辺で。
また明日。











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