天気の子を見て

 「天気の子」を見た。東京を舞台装置としてではなく、その『地霊』そして『普請中』でありつづける性質を描き切った上に、『天気』によって、それすら呑みこんだ点に於いて傑作である。
 作品の中で、最初に出て来た『歌舞伎町』が主人公達が疎外された町として描かれ、『池袋』‐更に言えば北口‐が逃走中の主人公たちを受け入れた町として描かれた点は、第一に言及すべきだろう。
 かつて新宿は東京の他者を受け入れる部分、言葉を換えれば『優しさ』の象徴として描かれた。『優しさ』とは「無関心」である(この無関心は勿論「無視」を意味しているのではないが、谷崎潤一郎の『秘密』ぬきでは説明しきれないので割愛する)。この点の代表作は佐々木譲の『新宿のありふれた夜』がまず挙げられるだろう。
 しかし昨今の新宿は石原浄化作戦以降、徐々に『優しさ』部分が喪失していった。あの地で"稼業”を営む者は皆、町が『綺麗』になるに従い、余裕が無くなっている。奥田英朗の『純平、考え直せ』はその点を示唆している(これは、もしかしたら東京に限らないのかもしれない香納諒一の横浜、南勝久の大阪もまたそうだからだ)。
 一方、池袋の北口はまだかろうじて『優しさ』が見え隠れする。主人公たちを泊めたラブホテルの受付が『婆さん』だったのは無意味な記号ではないだろう。
 あのシーンが記録的豪雨・異常気象の夜であった点を考えれば、あの婆さんは一従業員ではなくオーナーであり、かつての風景を知る世代なのだろう。そう考えれば、池袋の『地霊』によってあのシーンは描かれたと見て良いだろう(勿論、製作者の綿密なロケハンあってのことである。文字のみからでは、池袋北口と言う選択は難しいだろう)。
 しかし我々現代人は『普請』によって『地霊』を克服しようと試みる。池袋も例外ではない。豊島区長が最後の仕事とばかりに再開発に勤しんでおり、新宿や渋谷ばりに『綺麗』な町になるのも時間の問題のように思える。ヒロインが消失し、晴れ間が覗いたシーン、つまり世界が彼らの存在を否定した時に、一瞬、それまで全く描写されていなかった南池袋公園が出て来たのは偶然では無いだろう。
 南池袋公園は、元々城北空襲の死者を仮埋葬した場所を公園化した所‐つまり山手の横網町公園‐であり、10年前までは日がなホームレスが屯していた。
 そこを再開発で、家族やカップルが集まる明るい場所へ変えた。池袋が性質を変えつつある象徴である。東京は遷都以来200年弱、普請中であり続けるのだ。
 しかし、我々が如何に東京を普請し『地霊』も無力化させようとも、それは一過性のものに過ぎない。それは作中で滝君の祖母が語っていた事だ(曳舟周辺を200年前まで海だった、と語ったのは流石に事実誤認だが、意図的なものか?)。
 これは鈴木博之が『東京の地霊』で30年前に指摘していた事だが、日本人はなかなかこの観点を持てなかった。理由はおそらく我々人類への過大評価だ。反文明論は、大抵の場合、祝福された人類による自己陶酔と同義なのである(例を言えば内田某や某グレタ嬢が挙げられよう)。
 一定の支持を得ている東京観に『震災・戦災、戦後の開発による消失』がある。川本三郎先生はその旗手と言ってもよかろう。
 しかし『天気の子』は、その消失した東京すらも、それ以前の東京を壊して出来たにすぎず、より大きな力の前では無力であることを指摘しているのだ。
 事実、かつて宮崎・高畑が批判的に描いた多摩は、すでに現代人が屈しつつある。100年後は100年前と同じ風景が広がって居ても不思議ではない(少なくとも、自分は無邪気に『コンクリート・ロード』は歌えない)。
 鈴木博之の『地霊』はあくまでも江戸以降の視点でしかなかった(そもそも専門が建築学であるのだから当然だが)が、『天気の子』は『天気』の力により、それすら克服したのだから見事である。
 ヒロインの家が田端である理由が当初は見えてこなかったが、結末まで見れば、名前の通り武蔵野台地の東端であり、かつて(といっても縄文時代だが)海岸線であった田端に置く他なかった。鈴木博之は雨の谷中で『東京の地霊』の発想を得たが、そこからほど近い田端に舞台を置いた意味は特筆に値する。
『天気の子』は、やはり東京の『地霊』も『普請中』の性質も呑みこんだ作品なのである。
 

追記

この文を書いた後、改めて鑑賞した際、クレジットに『ロケハン協力 内田宗治』とあることに気付いた。

なるほど、なぜこれほどまでに素晴らしく、的確な東京描写が出来たか、その理由が分かった。

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