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6歳の父と11歳のわたしと祖母の人生


先日、パートナーとふたりで過ごしていた、なんの変哲もない日常の場面で、小学校5年生の時、大好きなおばあちゃんが買ってくれたドラえもんの形をした枕で、父に顔面を何度も殴られた場面がパッと浮かんできた。
何か弾けたみたいにパッと。

息を呑んで固まってしまった。


その頃はまだ、お家にラジカセしかなくて、好きな音楽をテープに録音するにはラジオからその曲が流れてくるというタイミングで、ラジカセのボタンを2つ同時に押す。そして周囲の音も入ってしまうあの懐かしい方法。 

日曜の昼間に、確かランキング形式で人気の曲がかかるラジオ番組があって、自分の好きな曲がかかる時には少しドキドキしながらボタンを押していた。


その日、ボタンを押してすぐに、1階にいた父が、わたしがいる2階の部屋に向かって何かを言いながら、階段を上ってきた。

わたしは父の声が録音されてしまう!また1週間待たないといけなくなる!と思い、階段の上から父に向かって、指を口に当て、シーッ!というポーズをとった。
『今録音してるから!』と小さな声で言うと、激昂した父はすごい勢いで階段を駆け上がって部屋に入り、そばに転がっていた、そのドラえもんの枕を掴んで、わたしの顔面を何度も殴った。
何か怒鳴っていたし、バン!バン!と顔中に響くその音で、わたしの録音はパーになった。

楽しみにしていた録音がムダになってしまったことが残念でならなかったが、それと同じくらい、父に何も言わなければこんなことにならなかったのにと後悔したのを覚えている。


その後、お前みたいな子どもが、大人が聴くそんな音楽を聴きたがるなんてどうかしている、おかしいとまた長い説教が始まった。
知られたくなかった部分を父に晒されて恥をかかされている気分だった。

***

わたしは今まで何度も、小さな頃のわたしに会いに行っている。
辛いはずのその場面でも涙を見せない小さなわたしを抱き寄せて抱きしめて、『助けにきたからもう大丈夫。泣いていいんよ。』と伝えて、辛い気持ちを全部吐き出させて、思う存分ふたりでたくさん泣いてきた、その子が笑顔になるまで。


にもかかわらず、今回のその場面は、今の今まですっかり忘れていたから、本当に驚いた。
と同時に、父への怒りがメラメラと湧いてきて涙が溢れそうになった。


わたしは最初、パートナーに『あいつ絶対しばいたんねん』と少し茶化しながら話したけれど、堪えきれないし、堪える必要もないので、『ちょっと泣くわ』と言って泣いた。

パートナーは目にいっぱい涙を溜めながら、
『またあの子に会いにいかなあかんな』と言ってくれたけど、気が乗らない。
今回は、5年生の小さなわたしの声を聞き、彼女の気が済むまで一緒に泣いて、笑顔にするだけでは、もう彼女は満足しないとなぜか悟ってしまっていた。


もう夜も更けていたけど、魂が知らせてくれた今を逃すのは違う感じがして、わたしはひとりの空間であの場面へ向かった。


***


バツ悪そうに勉強机の前に立っている11歳のわたし。
そのすぐそばで、横になり肘をついて頭を起こした姿勢でしつこく説教をしている父。

わたしは父の首元を掴み、引っ張り上げた。
『おまえ何したかわかってんのか!!!』

父は抵抗したが、わたしは負けない。
そして案の定、いつも自慢げに人に話していた、
『自分の子どもをどうしようが俺の勝手や』と
『手で叩いたら俺の手が痛いから、いつも蹴るんや』
それの何が悪いと言ってきた。

わたしは煮えくりかえり、一瞬、頭の中だけでこのアホの顔を横から蹴ってみた。
メガネがぐにゃっとなっただけで、
(あかん…これではこの11歳のわたしは笑顔にならない…)と思い、父から手を離してその子に駆け寄り、抱きしめた。


『辛かったな。ごめんな来るのが遅くなって。泣いていいよ。辛かったな。』と背中をさする。
でも、彼女は泣かなかった。
わたしの体に手を回してはいるが一向に涙を見せない。
やはり今までと同じ方法ではこの子を癒せないのだ。


わたしは彼女に、
『今からわたしが、お父さんがもうこんなことをしないようにするから見てて。怖いことはしない。心配しなくていいから、見ててな』とニッコリして頭を撫でた。


そしてわたしは目の前の40歳を過ぎたであろう憎たらしい父の中から、6歳の彼を取り出した。


***


父は6歳のころに実の父を自死で亡くしている。
祖父は婿養子で、自死の原因は自分の実家との揉め事だと聞いた。
元々体が弱くて、とても優しい人だったと聞いた。


夫を突然亡くした祖母はそれから、昼間は近所の会社の社員食堂で働き、夜は和裁をして、誰の力も借りずに、ふたりの子どもを高校まで卒業させ育て上げた。
昔の田舎の狭い地域でどれだけの人の目に晒され、それでもその場を離れずに最後の最後までやり遂げた。


祖母は祖父が亡くなったあと、夜中によく山へ登り、修行をしていた。
"霊"が視えるので、『こんな顔の形でこんな風貌の人を供養した方が良い』と、相談に来た人たちに、先祖の供養を勧めていたらしい。
わたしはこれが、祖母のたったひとつの拠り所だったと理解したが、周囲は誰ひとり、そうは思っていなかったようだった。

"可愛げのない自分勝手な人"が祖母に貼られたレッテルだった。


昼も夜も母がいない。
父は酔うと、幼い妹が夜中に『おかあちゃん、おかあちゃん』と泣くことが辛かったとよく言っていた。

そして、自分の両親は愛し合っていなかったとも話していた。
自分はふたりが愛し合ってできた子ではない。
祖父が幼い子どもふたりを遺して、自死を選んだのは、祖母が祖父に冷たかったからだとも話していた。


父の自死を目の当たりにし、冷たい母(と認識している)は、自分の修行のことで頭がいっぱい。

自分は母から愛されていない。
女は愛していない男にも股を開く汚い生き物。
そして、女は男を苦しめるもの。

この信念がいつのまにか父の中に出来上がってしまい、まさにそれを体現していた人生だった。
母と結婚する前に、付き合っていた女性に酷く傷つけられたと聞いたことがある。
信念は必ず証明されるので当然だが、全て今の父に繋がっている。

そして彼はずっと祖母を嫌っていた。
父の好物を両手のバッグにめいっぱい詰めて、年に数回、訪ねてくる祖母が、嫁である母を慮り、
『お酒を少し控えたら』などのひと言に怒り狂い、祖母の顔に向かって、グラスの水を振りかぶってかけた瞬間を見たことがある。
祖母は顔色ひとつ変えずに、頭や顔にかかった水をタオルで拭いていた。
こんな場面は他にもたくさんあった。


祖母は結局多くを語らず、父に対しても言い訳ひとつ遺していない。
それが余計に彼の信念を強固にしたのだと思う。


***

40歳の父から取り出した6歳の少年は小さく痩せていた。
わたしは、父がそうしたように、ドラえもんの枕を掴んで、その少年の胸元を強く抑えた。
『今から、おまえがさっきあの子にしたことを見せたるからな!よう見とけよ!』と振りかぶった。

父は、『やめてくれ!!!』と叫んで止めに入った。

そこで初めて、11歳のわたしが、堰を切ったように泣き出した。
口を横に開いて、声にならない声を出して泣いていた。
わたしは彼女を抱きしめた。一緒に泣いた。
父の辛さをこの子は無意識に受け止めている。
どうしてやれば、この子を救えるのだろうか。


わたしは辛すぎてもどかしくて泣き喚きながら、
『今、やっと想像できたんか?
この11歳のこの子が、どんな気持ちで、何度も振りかぶってぶつけられる枕を顔で受け止めてたかわかるか?
おまえのやっていることは、教育ではない。この子はおまえの所有物でもない。
自分の辛さやイライラを暴力や暴言で、抵抗できない小さな子どもにぶつけているこの異常さに、ほんまにに気づけてないんか?』

もっともっと汚い言葉で罵ってやりたい。同じ苦しみを味あわせてやりたい。
でも6歳の少年を傷めつけることもできず、こんなことしか言えない自分が悔しかった。

父は黙っていた。6歳の彼は怯えている。

そうなのだ。
父は、わたしが知っている父は、ずっとマインドが6歳のままだったのだ。


自分の人生を恨み、母を恨み、人に笑われないように、恥をかかされないように努力して、社会的に成功を手にしても、いつ誰に取って代わられるかわからない。
いつ負けてしまうかわからない。
外ではとても良い人である代わりに、家に帰れば家族を攻撃する。
恐れと怒りに翻弄され続け、自分自身を蝕んでいる。


わたしは、こんなままではどうしようもない、埒が明かないと、
『今からおばあちゃんに会いに行こ。会って顔を見て、おまえがずっと感じてきたことを全部おばあちゃんに伝えに行こ。』

そう言って、嫌がる父を引っ張って、香川県のおばあちゃん家に移動した。

おばあちゃんは、突然のことに驚いていたが、いつもの如く、冷静で機敏で凛としていた。


わたしは、
『おばあちゃん、お父さんがおばあちゃんに言いたいことあるみたいやから、ちゃんと聞いたってほしい。そして本当のこと、本当の気持ちを伝えてあげてほしい。でないともう、限界やねん。』と伝えた。


居間で祖母の斜め向かいに座る父に
『はよ全部言え!!』と言うと、小さな頃から抱いていた気持ちを鼻を真っ赤にしてぼろぼろ泣きながら話していた。
噂話の対象にされたり、同情されたりする中で、
悲しくて寂しくて怖くて不安で辛かった気持ちを子どものようにひっくひっく言いながら、伝えていた。

野球がしたかったけれど、道具にお金がかかるから諦めてマネージャーをしていたこと。
周りの友だちは皆、父親がいること。
それが羨ましくて仕方なかったとも話していた。

祖母は時折り、涙を拭っていたが、やはり"弱さ"みたいなものは感じられなかった。


***

祖母は結婚前、大阪で働いていた。
都会で華やかな生活を送っていたらしいが、
四人姉弟の長女で、一番下に弟がいるにもかかわらず、香川に連れ戻され、婿養子をとらされた。

その理由が、祖母の母(曽祖母)が、末の息子を自分の実家の後継ぎにしたいと言い出し、息子の姓を変えてしまったからだった。
実家に男子がいないのなら、その時代は仕方なかったかもしれないが、そうではなかったから皆驚いたらしい。


祖母にとっては、正当な理由なく、田舎に連れ戻され、婿養子を取らされ、体の弱い夫と数年の結婚生活を送り、突然自死されて、その胸中はどんなだったろう。
泣き言ひとつ言わず、数十年、寝る間も惜しんで懸命に働き、子ども達を育て上げ、好き放題にしてきた父の仕事が落ち着き、これからやっと楽になるという60代半ばに動けなくなってしまった。

いつも冷静で強くて頼り甲斐のある祖母は姿を消した。
それからの数十年、ベッドに横になるだけの日々。何の楽しみもなく美味しいものも食べられないままに過ごした。

精神疾患だとされていたが、わたしは数年前に分子栄養学を学び、全くの間違いだと気がついて、本当にショックだった。
ショック過ぎて誰にも言えなかった。

彼女こそまさしく副腎疲労で、今まで奮い立たせてくれていたホルモンをすっかり使い切ってしまった故の症状だった。全てが当てはまった。苦しかった。


もう一度会えるなら、頑張って頑張って頑張り抜いた祖母を抱きしめたい。
誰にも理解してもらえず、あんな修行をしたからおかしくなったと散々に言われていた祖母の無念を思うと胸が苦しい。
気づいてあげられなくてごめんね、辛かったねと伝えたい。


わたしは言い訳じみたことは一切言わず、最期まで自分を貫いた祖母ほど立派な人はいないと心から尊敬している。

わたしを本当に愛してくれた祖母。
いつも空に向かってその想いを伝えている。

***

父の想いを聞いた祖母は、
決して父を愛していなかったんじゃないこと、
夜が来るたびに不安に襲われて、消えてなくなりたくなる自分、子ども達を置いて逃げ出したくなる自分を律するために、山に登り、滝に打たれていたと話していた。

どんなことをしてでも、人様に同情されるような子ども達に育てたくなかったとも言っていた。


わたしは、40過ぎのもうすっかり大人の父に、
祖母の人生を、ひとりの女性の物語として見た時にどう感じるかと聞いた。

父は子どもの頃から随分苦しんだようだが、それは無理もない。
辛かった故に、自分で作り上げた思い込みで自分の悲しみに蓋をし、怒りと攻撃で自分を守りたかったのだろう。

父はずっと泣いていて、その返事はなかった。

***

数ヶ月前わたしは、なぜか進んでいけない、表現したいことを表現できない自分に苦しくなって、天に向かい、わたしが気づいてないことを教えてほしいとチャネリングをしたことがある。

まさに何かのチャンネルを合わすようにやってみた。
すると甲冑を来た戦士がひとり現れた。
心も体も酷く傷ついたままひとりで前へ前へと進んでいる。
息子を心配するふくよかな母の姿も見えたが、どうやら、
【愛されていないと誤解をしたまま、戦いをやめられない孤独な戦士】のようだった。


その時は、きっとわたしの魂に刻まれている記憶なのだろうと思った。

戦いを終え、心配する母の元に帰り、誤解が解けて抱きしめられますようにと願っていた。


それを思い出し、今回のわたしのこのジャーニーは、わたしだけでなく、父の魂の傷をも癒すためだったんだと理解した。

祖母は泣いている父の顔を両手で包み、何か話していた。わたしには聞こえなくて、その姿は少し遠くに見えた。


この旅の終わりが近づいている。
わたしは父の前に、6歳のあの男の子を連れて行った。
父はまだ涙が止まらず、そのままその子を思いきり抱きしめていた。
小さな彼は顔を上げて、泣き続ける父を見ていた。

わたしが後ろを振り返ると、11歳のわたしが玄関の土間に立っていた。
こっちにおいでと言って、駆け寄るその子を抱きしめた。


そして、
『あのな、さっきな、あんたの顔叩いてたん、あの男の子やってん。お母さんに嫌われてると思って悲しかったんやって。辛くてあんたに当たってしまったんやって。これからはもう絶対あんなことしないって。』と言うと、ニコッと笑っていた。
おかっぱ頭のサラサラヘアのまだ小さなわたし。

その後、彼女は40歳の父に近寄って行った。
父がその子を抱きしめたというよりは、その子が父を抱きしめているようにわたしには見えた。
父は『ごめん』を何度も繰り返すのみだったが、現実のわたしはものすごく泣いていた。
父は涙が止まらず、ひっくひっくと子どものように泣いていたが、わたしも同じように泣いた。

この涙こそが、癒やしなのだと思う。
とても長い時間、泣いていたと思う。

***

だんだんと涙が止まってきて、目を開けると、夜が明けていた。

長い旅だったが、わたしは祖母の代(もしくはもっと前からかも知れない)から続くこのカルマ
【母親を恨み、孤独な戦いをやめられない】は、これでもう終わったと感じた。

父や母に辛く当たられ、わたしも彼らを憎んでいた。
でも数年前、体調不良をきっかけに分子栄養学を学んだことで、両親共に幼い頃から強い緊張があり、酷い低血糖と鉄欠乏が原因の、怒りをコントロールできない状態だったのだとわかった。
そして人生を変えるような出会いに恵まれ、本当の自分と向き合って向き合って向き合い続けた結果、今回のこの旅に至ったのだ。

わたしはひとりでこの旅の準備をしたわけではない。
いつもそばで支えてくれた家族や、出会った人たちの優しい眼差し、温かい言葉。
時には力強くわたしを励ましてくれたたくさんの愛が、わたしの準備を捗らせてくれたんだと強く感じた。

それはやはり、わたしがこのカルマを断ち切る使命があったからだ。
わたしの魂は、それをしたいと望んでこの人生を選んできた。


ここに来るまで長かった。
長い間苦しんだ甲斐があったと思えるほど、わたしは今、わたしというこの魂を慈しみ、自分と自分のこの人生を愛している。
それがどれだけ幸せでどれだけの安心をもたらしてくれているか。


大きな仕事を終えたような満足感と疲労感を感じながら、立ち上がってベッドに向かおうとした時、父の声が聞こえてきた。
『おかあさーん!おれもう今日酒いらんわー!』

母を召使いのように扱い、毎日のように罵っていた父が、母に向かって優しく少し甘えたトーンでそう言っている。
毎夜毎夜、自分を傷めつけるようにお酒を飲んでいた彼からは考えられないような言葉で、わたしがフッと笑うと、父と母がふたり並んでキッチンに立って何かを作っている姿が浮かんだ。
母はとても嬉しそうにしていた。

そこには、いつもの怒りに包まれていた父はいない。
怒りのその向こうにあった悲しみを全部吐き出して、彼は軽くなっていた。
これが、彼の本当の姿だったのだと感じてわたしがまたフッと笑うと、
わたしの中でも何かが変化して、それに一瞬戸惑った。
感じたことのない感覚だったからだ。

少し胸の奥が切なくなってわかった。

わたしも、絶対に負けられない孤独な戦いをやめることができたのだ。
父と戦わないと自分がぐちゃぐちゃにされ負けてしまう。こんな人間に負けたくない。自分は間違っていないと証明したい。

頭では理解していても、ずっとこの思いが奥にあるままになっていた。
でももうその必要がなくなり、意識では感じられない何かが書き変わったのだと思う。


長い長い旅をこれで終えた。

***


最後に…

今回のこのジャーニーの内容を綴るのは、少し抵抗があった。
スピリチュアル全開なこともあるが、父と祖母の人生をわざわざ見せる必要があるのかとも思った。

しかし、生き辛い、苦しいと感じる心を持っている人は皆、それぞれのカルマを断ち切ることが使命のひとつなのではないだろうかと感じたのだ。

それを魂が望んでいるから、苦しさを感じる。
苦しいからこそ、もがいてもがいて、どうにか抜け出したいと願うのだろう。

断ち切るのは今すぐでないかも知れない、今世でないかも知れない。
が、いずれにしろ、その魂はすごいパワーを秘めている。

書きながら、父と祖母がそれを教えてくれたのだと感じた。

弱いから苦しいのではない。
強いから苦しいのだ。

わたし達は何よりも美しく強いパワーを備えて生まれてきている。
今、どんな状態にあろうと自分を信じてほしい。

諦めずに向き合い、自分を大切に扱う方へと一度舵を切れば、自分の魂の美しさと強さを目の当たりにする日が必ず訪れる。

わたしが特別なわけではない。
誰も皆、自分の魂に還ること、カルマを断ち切る強さを備えていること。

これをどうしても伝えたかった。

きっと父も祖母も喜んでくれていると思うから。

***


最後まで読んでくれてありがとう。

父と祖母へ感謝を込めて…


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