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地図にない島へいく

胃酸があがってきそうなほど船が揺れている。

薄い毛がへばりついた頭に手拭いをまいた船頭が、酒臭い息を吐きながら、back numberや秦基博なんかを熱唱しているからか。いや、問題はこの状況だ。井の頭公園じゃあるまいし、曲がりなりにも太平洋のど真ん中で手漕ぎボートはないだろう。

などと愚痴っていてもはじまらない。もはや頭を360度回転させても、東西南北青い空と海ばかり。航海、あとにたたずとはこのことだ。

ふ。うまいこといった。だろ。

ヤマジはこたえない。目を閉じて丸くなっている。

親父が声をあげる。

「だいじょうぶかよ、おまえさんの、ええと、相棒は」

「だいじょうぶっすー、たぶん」

「待ってな。あと5曲歌ったら着くわ」

5曲もか。げんなりして眠るヤマジのおなかをなでる。さっきたらふく喰ったから、しばらくは大丈夫だろう。

相棒。この親父、うまい言い方をする。

ペットだといわれたことはあった。口の悪いやつからは食用かと。

ヤマジはおれの旅の仲間だ。もうずっと昔から。


×    ×    ×


おれたちは、同じアパートに住んでいた。

けば東京の下町。小さな家が垣根もなくひしめきあう通りの奥。普通に歩いていると見過ごしてしまいそうな家と家のあいだにある薄暗い通路をぬけると、いきなりぽっかり開けて小さな広場が現れる。その広場を取り囲むようにして、二階建ての木造アパートが3棟つながって建っていた。もともとはその地にあった工務店が高度成長期ころに急成長して、従業員とその家族の寮としてつくったものらしい。最初は一棟だけだったが事業拡大にあわせて無計画に増築し、いつしか中国の客家みたいつくりになったところでパタリと運がつき、事業を撤退。そのあとは何度も家主を替えながら、普通の賃貸アパートとして何とか生きながらえていた。

寮の名残りで玄関と旧式の便所と風呂は共有。屋根は歪んでるし雨漏りはしょっちゅうというオンボロアパートで、そのぶん家賃はむちゃくちゃ安い。おかげでうちみたいに、着の身着のまま亭主のDVから逃げ出した母子や、親戚中から縁を切られたアル中の年寄りや、やたら出入りの多い国籍不明の一家や、自称学生や自称発明家や自称フリーカメラマンや自称作家やらが、入れ替わり立ちかわり暮らしていた。

アパートの前の広場はいちおう中庭と呼ばれてはいたけれど、花ひとつないただのむきだしの土の地面で、雨が降ればでかい水たまりができ、やめば泥だらけになり、いつだってあちこちにゴミが吹き溜まっていた。

おれと母親がはじめてそのアパートを訪れたときも、隣の墓地の樹木から落ちてきた枯れ葉で中庭は埋め尽くされ、打ち捨てられたような侘しさが漂っていた。

ぎしぎしいう木の階段をのぼった13号室。

母親は荷物を置くと、ささくれた畳にぺたんとすわり、掃除しなきゃ とつぶやいた。

カビ臭く、天井の四隅にはクモの巣がかかり、柱のすきまから隣の部屋が見える。すりガラスのはまった木枠の窓を開けると、西陽がまぶしく差し込んできた。

見下ろすと、枯れ葉で覆いつくされたアパートの中庭に、おれと同じくらいの子どもがいた。髪がくるくるした奴で、せっせとプラスチックの板きれで枯れ葉を隅に押し寄せている。そんなことしたってすぐ葉っぱは落ちてくるのにな。そう思いながら、他に見るものもなくそいつのようすをぼんやり眺めていた。

ようやく地面が現れてくると、くるくる頭は、釘かなにかで線をひきはじめた。

土が薄く盛り上がり、いくつもの曲線が細くなり太くなり見えてくる。

でたらめに線を引いているのかと思ったが、すぐに気づいた。

絵を描いているのだ。

線を引く。右から左から。まるで魔法のように地面に絵が浮かび上がってきた。 

顔。目。口。細い手足。人だ。麦わら帽子。海。船。ああ仲間たちも。あの例の片手をあげるポーズで。

目をみはった。あの人気漫画じゃないか。しかも、めちゃくちゃうまい。す……

「すげー! かっけーー!」

思わず窓から身をのりだして叫んでいた。母親がおさえなければ飛び降りるとこだった。

くるくる頭はびくりとして、まぶしそうにおれを見上げた。今とおんなじ人懐っこい黒い目で。

ヤマジ。それが、おまえとの出会いだったよな。


ヤマジは一階一号室にばあちゃんと二人で暮らしていた。ばあちゃんは耳が悪くて、いつも静かでにこにこしてる。おれの母親が夜にスナックで働き始めると、よくヤマジの家でご飯を食べさせてもらった。

おれたちはトシも同じで、漫画やアニメが好きで、あっという間に意気投合していつも一緒にいるようになった。オタクな兄ちゃんたちの部屋を渡り歩いて、漫画やゲームをしまくり、アパートの風呂も一緒にはいるし、おもしろいと思ったことはなんだってやる。

幽霊がでると噂の古い工場跡を探検した。アパートの裏に秘密基地をつくったことも。ビルの屋上に忍び込んでUFOを呼ぶ儀式もしたし、超能力をつかう特訓もした。今でいうパルクールのまねごとをして、アパートの壁に穴をあけたのもおれたちだ。

たいていはおれが思いつきで「今日はコレをするぞ」と宣言する。それがどんなに荒唐無稽なことでもヤマジは絶対に否定しない。最初は困ったような顔をしても、結局はおれの無謀な計画にのってくる。ヤマジがいると、ただの思いつきが真剣勝負になってくる。

たとえば、タイムマシン。

最初はもちろんおれがつくろうといいだした。ヤマジはくるくるの髪に手をつっこんで頭かかえながらも、次の日には完璧な設計図を仕上げてきた。こうなったらやるっきゃない。さっそくアパート中から材料になりそうなものを集めて、何日もかけて組み立てた。

ヤマジとうちの部屋番をくっつけて、名づけて『タイムマシン113号』。

その出来はアパートのほかの住人も感心して見に来るほどで、おれたちは自慢げにテープを切って完成式までした。ところが、その夜、酔ったじいさんが勝手に乗り込んで、ばあちゃんの杖でつくったレバーが取れてしまった。一体どこへ行くつもりだったんだか。ガラクタは絶妙なバランスでくっついていたから、レバー一本なくなるとマシンはあっというまに崩れて鉄くずの山と化した。結局おれたちは一度も乗れないまま、中庭からマシンの残骸を撤収させられた。

ヤマジはほとんど学校にいっていなかった。どうやら学校では空気より影の薄い存在みたいにあしらわれていたようだ。転校してきたおれは、何も知らないばかな学校の連中や先生に、なんとかしてヤマジがすごい奴だと知らしめたくてたまらなかった。

だからおれは、いったんだ。

「おまえ、漫画かけよ」

ヤマジはほんとに絵がうまい。人気漫画のマネだけじゃなく、背景や人物もちょっとコレすごすぎないかってくらいうまいんだ。そのことを知ってるのは、おれとヤマジのばあちゃんくらい。だからヤマジが有名漫画家になったら、学校の連中も驚くにきまってる。

「かっちゃん」

ヤマジはのびた前髪の間からおれをうらめしそうに見た。

「漫画なんてムリだよ。何かいたらいいかわかんないし」

「ストーリーってやつだろ。まかせとけ。ハッタリは得意なんだ」

タイトルはすぐに決まった。

『タイムトリッパーズ113』

秘密の設計図でつくったタイムマシンで、お宝さがして過去や未来へいくアドベンチャーだ。仲間と離れ離れになったり、マシンが壊れたり、敵と戦ったり、次から次へといろんなことが起こりまくる。セリフも設定も漫画やアニメやゲームのつぎはぎだけど、かまうものか。夢中になってしゃべりまくった。「未来で待ってる」と仲間が去っていくラストシーンも絶対にどこかで見た。

「す」ヤマジが目を大きく見開いている。

「すごい。かっちゃん、天才。おもしろいよ」

「え。マジ?」

「うんっ。見えてきた。これなら描ける!」

 スイッチがはいった。

「おれたちの合作だ。ぜってー売れるぞ。金持ちになったら、漫画買いまくろうぜえ」

「ポテトチップ一年分」

「それよりこのボロアパートを出よう。タワマンの一番上とかいいな」

「パソコン買ってもいい? 絵が描けるやつ」

「楽勝。おれは飛行機だな。自家用ジェット。おれが操縦する」

「やった。いろんなとこ行けるね」

「だよな。どこいく?」

「かっちゃん決めてよ。ぼく、かっちゃんと一緒ならどこでもいい。あ。でも、ばあちゃんも連れていけるかな」

「ばあちゃんは豪華客船だよ」

まだ1ページも描いてないのに妄想は広がった。いや妄想じゃない。おまえならきっとやれると思った。ヤマジもそう思っていたはずだ。おれたちならって。

ヤマジは、いろんな時代のことをちゃんと調べて描きたいといった。どんな生活だったか何を食べていたか。どんな鳥がいたか。家の形は。空の色は。

「とことんやろうぜ。でもぜったい描けよ。約束だぞ」

「うんっ」

でも、おれはその漫画は見ることはなかった。

その後すぐに母親が再婚して、アパートを出ることになったからだ。

引っ越しはとつぜんで、ヤマジのばあちゃんは、幸せそうな母親の手をとりおいおい泣いた。ヤマジとおれはフィギュアかなにかを交換して、それきりだ。

新しい父親は、よく母親の店にきていた客のひとりで、残念なくらいいい人だった。

中学から高校まで新しい父親の実家がある九州で過ごした。自分の部屋とスマホとパソコンを手に入れ、新しい毎日に夢中になった。友達はすぐにできたし、それなりに楽しかった。サッカー部や卓球部や映画部に次々入ってはやめた。文化祭になると誰かを見つけては下手な漫才をしたりバンドを組んだりした。ガールフレンドができては別れた。数だけはめちゃくちゃ多い。どれも続かないだけで。

アパートにいたのは、一年半足らず。母親は思い出したくもないようで、その頃の話はタブーとなり、昔話にもならなくなった。

地元の大学を出て、東京で働き始めた。

最初のイベント会社は半年でやめて、次の不動産屋もひと月でやめた。転職をくりかえして、今は派遣やアルバイトでなんとかしのいでいる。帰るつもりはない。実家では、そのあと生まれた妹が結婚して子供つくって、二世帯住宅にして親たちと同居している。そのピカピカの新居におれの部屋などあるわけない。

結局タワマンに住むことも自家用ジェットを乗り回すこともなく、一日一日をつぶすように生きていた。

暇にまかせて、ネットに映画や漫画の感想をあげたけど、反応なし。それではと、昔考えたタイムマシンの話を書いてみたら、「あのマンガのパクリじゃね」「エンタメのボートクw」「ヘタクソ」とそのときだけ辛辣なコメントがどっさりきた。

わかってるよ。ガキがでっちあげた話だからな。

あふれる非難のコメントを読み流していると、妙なコメントを見つけた。


《かっちゃん たすけて》


いきなり頭の中にある箱のふたがぱかんとあいたみたいに、くるくる頭のあいつの声が蘇ってきた。広く浅い人間関係のなかで、おれを「かっちゃん」と呼ぶのは、たった一人。

《どこにいる?》

返事はない。着信は1週間前。

まさかと思いながらも、いてもたってもいられず、次の日には居酒屋のバイトの面接をすっぽかし、遠い記憶を頼りにもよりの駅におりたっていた。

チェーンの居酒屋やカフェや雑貨屋が並ぶ駅前の商店街。すっかり変わっていたけれど、身体が道を覚えていた。長屋のような家が並んでいた通りはマンションや駐車場になっている。角の駄菓子屋はコンビニに、ドブ川はふたがされて遊歩道に。卒塔婆がのぞくコンクリ塀を見つけた。コインパーキングと人家のあいだには雑草だらけの空き地。

泣きたいくらい懐かしいあのアパートがあった。

覆われたつる草のおかげで、かろうじて建っている。昔とまったく変わらない木のガラス戸の玄関の鍵は閉まっていたが最近使われた気配がある。おれは裏にまわり共同風呂のわきの板戸を目指した。これは一見ただのトタンの壁だけど、玄関の鍵をなくした住人が使っていた秘密の裏口だ。板戸をすこし持ち上げてから上に力をいれて横に滑らす。そのへんも、ぜんぜん変わっていない。

中でごそごそ音がする。誰かいる。

「ヤマジ? いるのか? 何があった?」

病気なのか。事件に巻き込まれたか。二〇年ぶりだ。ずいぶん変わったにちがいない。あの巻き毛が薄くなってても、お互いさまだし見ないふりしてやろう。

板戸があいた。


かっちゃん! 


声のするほうへ視線をさげる。

薄い桃色っぽい丸い生き物がいる。

ぶただ。猫くらいのサイズの小さいぶたが、嬉しそうにおれを見上げていた。


朝起きたら、布団がでかいんだよ。今までの倍以上の大きさでさ。ベッドから床を見下ろすと、おりるのが怖いくらい。最初は世界が巨大化したと思ったんだ。そしたら、ガラスに映った自分の姿をみてびっくりだよ。


「だよな。おれも、びっくりだ」

ヤマジは、でしょでしょぶひっと鼻息を荒げる。

どうして虫や猫や犬やカピバラや恐竜じゃなくて、ぶただったんだろうね。

ヤマジのびっくりしどころは、おれとは違うようだ。

おれのうちにやってきたヤマジは座布団の上にすわり、皿にいれた牛乳を飲み、ドーナツを食べている。手というか蹄がある前肢を添えて、きれいに食べる。その姿はどうみてもぶただが、語尾にブヒと鼻息が混じるほかは、ふつうに人の言葉を話す。なぜか変声期前の、子どもの頃のままの声で、小さいぶたの姿にはよくマッチしている。

古い座布団の寝床と、愛用の旧機種のノートパソコン。過去二〇年のヤマジの生活の残骸から持ち出したのはこれきりだ。

ヤマジは、筋金入りの引きこもりだった。自分でそういった。


あれからもぼくは一度も学校にいかなかったし、働きもしなかった。ずっとあのアパートのなかで暮らしてたんだ。みんなが置いていった漫画や本やビデオやゲームをしたり、絵を描いたりしてた。パソコンも手に入れたから、なんだってできたんだよ。

知ってた? あのアパートはばあちゃんの名義だったんだ。だから、あそこの家賃収入とばあちゃんの掃除の仕事でなんとかやっていけたってことは、ぼくもあとで知った。


そのばあちゃんが亡くなって一週間後、ヤマジはミニぶたに変身した。

 ばあちゃんは亡くなるまえに、ヤマジにアパートの権利を移していた。引きこもりの孫の将来を憂えていたんだろう。そのときにはもうアパートに住人はおらず、家賃収入などとっくに途絶えていたらしいが。

そんなヤマジの生活は、ぶたになったからといって変わることはなかった。ばあちゃんの備蓄食料を食い、ネットで漫画やアニメを見る。このなりだが、ちゃんとトイレで排便もする。何度も便器におちかけて、体勢を習得した。鼻と口とひづめを使ってレバーにひもをひっかけて、水を流すやり方もあみだしている。

そのうちに、あのアパートの取り壊しが決まった。

ばあちゃんの遺言だかの効力は限界があったようだ。同居していた孫は行方不明人扱い。知らない男たちがきて、残っているガラクタごと家を壊す段取りを決め、玄関の鍵を閉めていった。物置のような部屋の奥で、生き続けているぶたとパソコンに気づかずに。

ヤマジはアパートに閉じ込められたまま、ともに破棄されるかもしれない。

ヤマジはパソコンに向かった。そして、ネットでおれの書いた話を見つけた。

おまえは、小さな蹄の先でひとつひとつキーをおさえて、メッセージを送った。


ヤマジの首に青いリボンをつけた。名前入り。迷子防止のようなものだ。

「ヤマジ。いくぞ」

どこに?

「散歩だよ。買い物にもいく。少しは日光を浴びて運動をしろ。引きこもってるから」

ぶたになるんだ、といいかけて、これは差別なのか事実なのかわからず語尾を濁した。

ケージもないのでリュックにいれて、頭だけ出して連れていくことにした。最初はブゥゥとごねていたヤマジだが、無視して自転車を走らせると、背中で大騒ぎしはじめた。

 

かっちゃん、すごいね。空が高いよ。ほら飛行機雲。

 見て。人が歩いてるよ。人が。あんなに!

 すごい。車がバスがバイクが。あれが噂のキックボード?


どれだけ外の世界を知らなかったんだ。

芝生の公園でおろしてやると、ヤマジは、小さい肢でとたとた走っては転げまわった。

楽しいね。人だったときは、公園とか人のいるとこ苦手だったけど。

「その姿なら平気だってか?」

 うん。ぼくにあってるのかもね。ずっと、このままでいいかも。

「ばかいえ。……お」

近くにいた子どもたちがおずおずと近づいてきた。

「かむ?」

「噛まないよ」

「触ってもいい?」

「いいよな」

 ちょっとなら。

「ちょっとな」

子どもたちが次々小さい手をのばしてヤマジの頭をなでる。

「抱っこしたい」

「ヤマジ、どうする?」

やだ。それより遊びたいな。

「何して」

ピタゴラスイッチは? ほら、前にいっしょにつくったやつ。

アパートの中庭に段ボール箱をいくつもつなげてボールが進む迷路をつくったことがある。壁にあたって落ちたはずみにまた板がはねあがり、滑車が動き出し、また進む。あれも名作だった。

「お前は凝りすぎるからダメだ。ここじゃ材料ないし。かけっことか鬼ごっことかにしろ」

えぇ。子どもたちも喜ぶよ。

「おまえがだろ。なあ君たち、そんなことしたくないよな」

子どもたちは、凍った表情でおれを見上げていた。

「しゃべってる」

「ああ、こいつは人間の言葉が話せるぶたなんだ。すごいだろ」

後ずさる子どもたちが、見ているのはおれだった。やっと気づいた。この子たちには、ヤマジの声が聞こえていない。ぶたと喋るおれのほうを怖がっている。

「違う。こいつはもともと人間で、おれとは友だちで。だからおれには……おいっ」

子どもたちは大人たちのほうへ逃げ帰ってしまった。

平日の昼間に公園でぶらぶらして、ぶたをエサに子どもに近づく怪しい男。しかも言動不可解。公園中の視線が敵意で満ち溢れていく。人間だったぶたと話す男と、ぶたになったヤマジと、どっちが変なのか。おれは理不尽さに叫びたい気持ちになった。


ヤマジがただのぶたならいい。このおれでも、連れて帰ったからにはそれなりに世話もする覚悟だ。でも、相手はもと人間だし、なんといってもヤマジだ。

たとえキータッチが遅くても、パソコンだって使いこなすし、それなりにこだわりもある。おれが貧乏を嘆けば、貯蓄と運用の手順をレクチャーし、かっちゃんは無頓着すぎると説教したときは、本気で食ってやろうかと思った。

それでも、夜勤のバイトから帰ってきて、柿の種をぼりぼりやりながら缶ビールをあけて、映画なんかを見ながら、「この女優、よくね?」「うーわっ。泣ける」といった、人生においてまったく重要じゃない雑談ができる相手が待っているというのは、悪くない。

ヤマジは、ひととしゃべるのは苦手だといった。

「おれとは結構しゃべってたじゃねえか」

ぶひっとヤマジは笑った。

9対1。

「なんだよそれ」

かっちゃんが9で、ぼくが1。かっちゃんは、ぼくがなんかいわないうちに、どんどんしゃべってく。

「ふん。悪かったな」

ううん。ラクだった。

ぼくは考えるのがおそいけど、かっちゃんは早い。動物的で大脳辺縁系の働きが活発だからなにか決めるのもあっという間。ぼくは行動のベクトルの方向が見えて、やっと何をすべきかがわかってくるんだ。

そんなことをいいながら、おれが適当につくったチャーハンをはぐはぐと食うヤマジは、どうみてもぶたで、頭の中のループがまた戻る。

なりゆきで連れてきたものの、これからどうするか。

たとえヤマジが人間だったとしても問題はある。おれにもプライバシーがあるのだ。


「ヤマジ。話がある」

おれはヤマジに向き直った。

「じつは、あした、夜、ここで飲み会がある。おれの前のバイト仲間だ。男女計4人」

ヤマジはブヒと首をかしげた。

「いいか。あしたのおまえは、ただのぶただ。おれはおまえと話をしない。聞こえても絶対返事をしない」

メガネの彼女に、ぶたと話すヘンなひとって思われたくないからね。

「マツイさんは、そんなこといわない。……え」

ヤマジはブブとニヤついた。

かっちゃんがネットで書いてた話、ヒロインの子の描写と熱がやけにリアルだったからさ。ぼく、かっちゃんのファンだから、ピンときたんだ。

このぶた、あなどれない。

そのとおり、あのヒロインはマツイさんがモデルだ。マツイさんはロングヘアのメガネ美人。大人っぽくてりんとしてて、そのくせアニメやゲームにも詳しくて、酒も強い。いまはまだグループLINEの関係だけど、次の仕事が決まったら、ぐいとおしていく計画だ。

もちろん今度の飲み会に彼女もくる。あのマツイさんが、おれの部屋にくるのだ。

こぶしを握るおれのまわりをヤマジがうろうろと歩き回る。

ね、お酒は足りてる? 鍋がいいよ。ガスボンベある? 割り箸は? 掃除もしなきゃ。台所、トイレ、洗面所は絶対見られるから、きれいにしといたほうがいいよ。

「おまえはおれのおかんか」

ブヒーッ。

「なんだよ次は」

靴下、穴あいてる。


「よし。完璧だ」部屋をみまわした。

男の部屋だから片付けすぎてもいけないと、あえて壁に服をかけたままにして、机の上は散らばしておく。テーブルには鍋セット。冷蔵庫には缶ビール。本棚には見られてもいい漫画の単行本と今まで学んだ資格検定の本を並べて無難に攻める。台所やトイレはきれい好きなヤマジのチェックずみだ。

外の鉄階段をのぼる複数の足音が聞こえた。ヤマジは、そそくさと姿を消した。

「おじゃましまぁす」

やってきたのは、大学生のハナちゃんに、金髪のアタロー、ベトナム人のフォン。

「へえ。いい部屋じゃないスか」

「とても キレイですねー」

「遅れてごめんね」

最後に現れたのが、マツイさんだ。今日は髪をアップにして、一段と色っぽい。

「ひさしぶり。獺祭もってきた」

かかげた一升瓶に歓声があがる。野菜や肉を切る。鍋にいれる。マツイさんのメガネが曇ってきたのを合図に、まずはとビールで乾杯。今はそれぞれ別の仕事をしているけれど、飲み会といえば集まってくる気のいい連中だ。

獺祭が底をつきかけたころ、金髪アタローが彼女と同棲宣言をした。それを皮切りに、フォンが彼女に二股かけられていた悲恋を訴え、ハナちゃんがサイテー男の条件をつらねる。そしてついに、マツイさんがわたしはねとメガネを外しかけた。と思うと、再びかけなおし身を乗り出してベッドの下を凝視する。つられて他三名もマツイさんの視線を追う。

ベッドの下から、薄いピンクの丸いものがもぞもぞとでてきた。ヤマジの尻だ。

ヤマジは部屋の隅をとととと駆け抜け、閉まり切っていないトイレのドアを鼻でおしあけ、入っていった。しばらくしてトイレを流す水音が聞こえ、再びとととと戻ってきて、ようやく一同の視線が自分に集まっていることに気がつき、固まった。ぶたの貯金箱のマネか。

「なに、この子」マツイさんがメガネを拭いて二度見する。

「これはロンです。日本語でなんといいますか」フォンがいった。

「ぶただよぶた。へえ意外スねー。てか本物?」アタローが手をのばす。

その手をおしのけ、真っ先にヤマジを抱き上げたのは、ハナちゃんだ。

「うっそ。チョーカワイイィィィ!」

ハナちゃんは、その豊満な胸にヤマジを押しあて抱きしめた。

おれはたまたまこのあたりで拾ってとか苦しい言い訳をしたが、酔っ払いたちは聞いちゃいない。すっかりヤマジは時の人、いやぶたとなった。最初はあがいていたヤマジも、ハナちゃんの胸の魅力には勝てず、早くもうっとり目を細めている。

おれはふと思いついていった。

「ハナちゃん、こいつ気に入った?」

「うんっ。めっちゃ気に入った。マイクロぶた、飼いたかったんだ」

「じゃあ、連れて帰る? どう?」

最後の「どう?」はヤマジにいった。ヤマジはブヒィと答えた。あああ。めろめろだ。

「え、いいの? じゃ連れて帰っちゃう。やったあ」

ヤマジの腹にハナちゃんのキスマーク。交渉設立。

皆が帰りぎわ、マツイさんは心配そうに「いいの?」と目でいった。

おれは「いいんです」と目でこたえた。

だってヤマジがいたら、あなたを連れ込めないじゃないですか。


日曜だ。晴天だ。

ヤマジがハナちゃんに引き取られて一週間。一度LINEで写真が送られてきた。ハナちゃんと頬をよせあい、ヤマジはでれでれ。それで5%ほどあったうしろめたさもふっ飛んだ。友よ、楽しき日々を。

それよりも明日は、正社員の面接だ。中央区に本社があり、ボーナスと福利厚生があるIT企業。口笛をふきながら背広を出していると、玄関のむこうでブヒブヒ声がする。


かっちゃん、あけて。


ドアを開けると、泥だらけのヤマジがいた。

ハナちゃんちから、3日かけて戻ってきたという。

風呂場でヤマジを洗ってやりながら、話を聞いた。

「虐待か」

まさか ヤマジは首をふる。

ハナちゃんはよくしてくれたよ。やさしいし、ごはんもおいしいし、ベッドも最高。知ってる? 女の子の部屋って、なんか甘い匂いがするんだよね。一緒にお風呂も入ったんだ。

「ああそうかい」ついヤマジを磨くブラシに力が入る。

でも、ハナちゃん、ボーイフレンドがいるんだ。ハナちゃんは、ぼくがいるのに、そいつとベッドで……ブヒーッ。

あわててヤマジの口だか鼻だかをおさえる。こいつの高い鼻息はけっこう響くんだ。

ほかのペットたちはどうだか知らないが、もと人間のヤマジには、この状況は刺激が強すぎた。それで男が帰るすきに飛び出してきたという。

誰かに見つからないよう移動は夜だけ。夜の町は、ちがう生き物たちの天下で、猫やハクビシンやカラス、ほかにも見たことがない生き物たちに狙われつつヤマジは逃げてきた。

「命がけの大冒険だったわけだな。お疲れ」

ブヒと鼻をあげる小さいぶたのヤマジ。可愛いじゃないか。



部屋のドアに『ペット禁止』の紙を貼られた。

暗に、というかダイレクトに大家から苦情をいわれているとわかった。

ここ『メゾン・ド・オオガキ』は、2階建て計8世帯。隣からは毎朝5時からきっかり1時間お経が聞こえてくるし、その隣の住人は老いた母親を罵倒しまくっている。もっといえば,1階の親子は外猫に餌づけをしている。なのにどうしてぶたはいけないんだ。

こいつはヤマジだぞ。こんなに愛らしくきれい好きなぶたはいない。

なぜか思い切り擁護し、SNSで不満をぶちまけた。だが世間の反応は冷たかった。

「でも、キマリだからね」と一言で切り捨てられた。

しまいには「ぶたのためにも、都会のマンションで暮らすべきじゃない」とまでいわれた。マンションじゃない。アパートだ。ねずみだって出る。ぶたの何が悪い。

そんなやりとりを遅くまでしていて、ヤマジに起こされなければ、面接に遅刻するところだった。

翌日訪れた会社の面接は、都心の高層ビルの階上でおこなわれた。ずらりと並んだ面接官のなかには、おれより若い人もいる。

面接は事務的で、最後に趣味の話を聞かれた。小さいぶたを飼っているというと、場がいきなり和んだ。ああだめだなとおれは直感した。悲しき長年の経験でわかる。せめてもと、これからめったに見ることができないだろう大きい窓から見える富士山を目に焼きつけた。

その帰りにマツイさんに、はじめて個人LINEを送った。

マツイさんはおれのようすを察して、「会おうよ」とすぐに返信してきた。

待ち合わせたカフェに現れたマツイさんは、あいかわらずきれいだった。くっきりわけた長い髪。きりっとした黒いメガネ。大きめのバッグ。確か今は派遣で事務の仕事をしているはずだ。

「仕事ができそうだなあ」

「そっちこそ。スーツ姿、なかなかいいじゃない」

たしかに。失業中には見えないだろう。マツイさんは、面接の結果を聞かなかった。その心配りがありがたい。ヤマジが帰ってきたことをいうと、「よかった」とほほ笑んだ。 

彼女ならきっとわかってくれる。今こそいうべきだ。

口を開きかけたとき、彼女のスマホに着信の合図がきた。

ちらと見た発信者は《シンイチ》。


ヤマジが小さい蹄をおれの膝にそっと置く。

カレシがいたんだね。

「違う。息子だ」

マツイさんは、おれより年上で、4人の子どもがいる母親だった。ダンナはマドリードだかマダガスカルだかに単身赴任。どっちでもいい。夜の飲み会にもしょっちゅう来るし、勝手に独身だと思い込んでいた。この見込みの甘さがおれの人生すべての敗因だ。

「じゃあがんばって」と母性あふれる笑顔をむけて、息子の塾の迎えにいくからと去っていくマツイさんを引き留めることはできなかった。

翌日。大家から最終通告を受けた。

「ぶたは困ります」


大家の言い分は正当かつ説得力があった。

しつけや性格の問題じゃないんです。ミニぶたといっても、成長したら100キロ以上になることもある。鳴き声も大きくなるし、力も強くなる。うちのアパートは、そういう動物を育てるには適していません。それに、地域に届け出もいりますよ。

今のヤマジは、猫くらいの大きさだから、まだ成獣ではないんだろう。改良されたマイクロぶたなら、そこまで大きくはならないとはいうが、そもそももとは人間だし、これからどうなるのかさっぱりわからない。

 それでもきっと、ヤマジが生きていける場所があるはずだ。


日本地図を開く。

貯金をはたいて中古のバンを買った。

大家が餞別にとミニぶた専用フード1袋をくれた。悪い人じゃないんだ。

おれたちは旅に出ることにした。時間を急ぐわけじゃない。高速なんかなるべく使わず下の道をゆく。

ヤマジは、目を輝かせて、うつりかわる窓の外の景色にひたすら見入っていた。

最初からこうすればよかった。

おまえはあのアパートで、来ては去っていく住人たちの背中をどんな気持ちで見つめてた?

あのときおれが声をかけなきゃ、おまえはずっと地面ばかり見ていたろ。あの敷地から出てタイムマシンの材料を探しに行こうとはしなかったろうし、秘密基地だってつくれなかった。

おれだってそうだ。おれはおまえがいたから、母親が顔にアザつくっていつも泣いていて、夜遅くに酔って帰ってきても、耐えられたんだ。遠足の弁当がコンビニのでもうまそうに食えたんだ。

おまえが見なかった世界を見せてやりたい。おれも一緒に見たい。

それに一縷の望みがある。こうして旅をしてるうちに、おまえが人間に戻るかもしれない。ぶたのままでいいなんていうな。仕事とか恋とか家族とか、めんどくさいことも多いけど、おれはおまえといっしょに大人になりたいし、酒飲んで愚痴とかこぼしたいんだ。おまえと、くだらないことしてみたいんだ。

おれたちは、北の果てから南の果てまで、行きまくった。

北海道では牧場で働いた。ヤマジは予防接種をしてもらい、健康なぶただと確認された。農家のアルバイトもよくやった。山の中で遺跡発掘もしたし、民宿やリゾート施設でも働いた。いつでもどこでも、おれたちはテントや車の中で過ごした。

どこにいってもヤマジは可愛がられたし、新しい風景に出会うたびに面白がっていたけれど、しばらくその地にいると最後は必ずいう。

かっちゃん 帰ろうよ。

あの頃と同じ声で。

アパートの兄ちゃんに聞いた隣町の古道具屋に行こうといったのはおれだ。店じまいをするから子どもは5〇円でクジ引きができる。大当たりはプレミアムのゲームカード。

ヤマジはチャリをもってなかったから、おれたちは歩いていくことにした。線路に沿っていけば隣町の繁華街にでるはずだ。まるでゲームの世界をゆく勇者みたいに胸をはってずんずん歩くおれに、ヤマジは置いてかれまいとぴったりとついてきた。

気がつくと、足元が見えなくなってきていた。道はとぎれ、あたりには人家さえない。何をどう間違ったのか。ここはどこなんだ。

それでも、おれは意地をはった。

「きっともうすぐだ。ほら、ふたりでゲットして学校のやつらに見せびらかそうぜ」

「かっちゃん。もういいよ。やだよ。帰ろ」

「すぐだって。きっと」

スマホなんてもっていなかった。やっとコンビニの灯りを見つけたときは、おれたちは二人で駆けだしていた。

あの頃は、おれたちにも帰るべき家があった。走るとギシギシうなり、すきま風だらけのあのアパートが。

すっかり遅くなったおれたちを路地の入口で待ち構えていたのは、鬼のような顔をした母親とヤマジのばあちゃんだった。

ヤマジのうちで食べたカレーは甘かったな。


ひとけのない季節外れの海岸でテント生活をはじめて1か月。

朝起きると、テントの前に野菜や米がおいてあった。近くの村のひとたちが、黙ってみていたんだろう。ヤマジは新鮮な野菜をもりもり喰って、砂浜を転げまわって喜んだ。大きくはならないが、動きも話し方も前より子どもっぽくなった気がする。

「ヤマジ。おまえ、絵を描けよ」

なにを?

「なんでもいい。おまえが描きたいものをこの砂浜いっぱいに描けよ。おれ、見たい」

うんっ。

ヤマジはとがった鼻や蹄をつかって、ゆっくりと描き始めた。

ヤマジの魔法がはじまった。砂浜の上にかけられていた見えない膜を少しずつはがすみたいに絵が現れてくる。足跡さえも、絵の一部と化していく。

旅で訪れた情景のかけらが現れた。

北の国の牧場や湖に埋もれた木。古い住居あと。雪でおおわれた山脈。黄金色の農地。自転車と車と路面電車。海の町。山の町。砂の町。光の町。人や動物や植物や。それらがからみあい、しがみついて、何かを形作っている。ぶるぶると震え、砂がはじけ飛ぶ。座席がある。そばにはサイドミラー。ばあちゃんの杖のレバー。拾ってきたタイマー。自転車のライトが光る。赤い線青い線。さらさらと砂が落ちて、建ちあがった。

おれたちのタイムマシン113号だ。

スイッチオン。ライト点滅。

動き出したぞ。ヤマジ、飛び乗れっ。

うんっ。

よぉし、出発だ。どこいく?

ティラノサウルスにほんとに羽毛が生えてたのか見たいな。

了解。

レバーをぐいと引く。タイマーがぐるぐる動き出す。

マシンがぐんぐん浮上する。

日本の形が下に見えてきた。着地点リセット。

東京に狙いを定めて急降下。

あのアパートが見えてきた。できたての頃らしくてキレイだ。中庭じゃ洗濯するおばさんや遊ぶ子どもたちがいる。映画の早回しのように、時が巻き戻されていく。アパートが資材置き場となり空き地となり、木々があふれ、町が崩れては、起き上がる。戦争。祭り。着物姿の男や女が闊歩してたかと思うと土地がくずれ農民が畑を耕し、荒れ地と化し、また蘇る。落とし穴に猪を追い込み、海に沈み再び隆起。マシンを上空へ。

大地が動いている。日本列島に近づくのはオーストラリアか。土の色が変わった。急降下。背の高い木々と大ぶりのシダの裏にひそめば、近づく巨大な影が地響きをたてて登場。

きたぞ。ええと。いつだ。

白亜紀。後期だね。

うお。なんだあれ。

レッパキサウルス。

鳥みたいなヘンなのがいるぞ。

キティパティ。

Tレックスは場所が違ったな。

見て。かっちゃん。そのかわりにユウティノサウルスだ。羽毛があるよ!


レバーを引く。ずんと背中に圧がかかる。時を一気に駆け上れ。

アパートがあったあたりに、超高層マンションが建っている。そのまわりもつるつるの高い建物が立ち並び、どれも通路でつながれている。まわりは海か砂漠。果てしない森。

空へ空へとのぼれば、マシンのそばをロケットが猛スピードでかけぬける。青い星。白い雲の筋のあいだから見える、日本列島の形。

かっちゃん。あそこ。

「どこ?」

島があるんだ。すごく小さな島。

 ぼくがつくったんだ。

 ヤマジははるか下を指をさしていた。小さな子供の指さきで。

子どものままの姿で。くるくる頭の子どものヤマジ。昔地面に絵をかいていたときのように、おれには見えないものを一心に見つめている。ヤマジの指の先からたらたらと緑色の光の筋がこぼれて、細く長い糸のように、まっすぐに地上へと落ちていく。

タイマーがはじけた。マシンをおおっていた蔦がほぐれて、部品が次々落ちていく。でもヤマジは乗り出すように指をさしたまま。

「ヤマジ? 壊れるぞヤマジ!」


かっちゃん お願い。

 あそこに。


マシンは着地すると同時に砂に戻り、おれたちは元の砂浜にいた。

砂浜いっぱいの絵の真ん中で、ヤマジが丸くなっている。小さいぶたの姿で。

桃色の身体の下に、この旅でさんざん使った日本地図があった。東京のはるか南の海のあたりに、ヤマジの指から落ちた緑色の光のしずくが玉になっている。見る間に光の点は小さくなり、地図にわずか0.1ミリほどの穴が開いていた。


かっちゃん ぼくを あの島につれてって。

ぼくが つくったあの島へ。


「ヤマジ、メシだぞ」

ヤマジはととと駆けてきて、アルミのたらいに肢をつっこんで夢中になって食べ始めた。「うまいだろ。新鮮な野菜だぞ」

おれはコーヒーを飲みながら、暮れていく空を見つめる。

わかっていたことなんだ。

ヤマジの声はもう聞こえない。

おまえはほんとうにただの子豚になってしまった。


潮が満ちてきた。

波が浜を濡らし、ヤマジの絵を消していく。


       ×   ×   ×


「よう知っとったなあ。こんなとこ」

薄頭の船頭は、一息ついて煙草を吸いはじめた。

「おれが漕ぎましょうか」

船頭はがははと笑って、手を振り払う。

「焦るな焦るな。ここまでくりゃ、じきだわ。わしも久しぶりよ。あの島に誰かを連れてくのは」

「あの、もっと、効率的な方法はなかったんですか。せめてモーターボートとか。わざわざ漁船からこんな船にしなくても」

「あかんのよ」

船頭は目をぐりんと回してみせた。

「あの島はよ、そういうのは寄せつけんの」

「そういうの」

「入るのにコツがいるってこった。まーっとまーっと昔は人がおったらしいが、どっかいってもうてな、そのあともホテルができたり軍がきたりしたけど、ま、こんなとこだし、ほったらかされてな。それからは、いろいろワケありの連中がワケありのもんを捨てにきとったが、島が怒っちまったんだな」

 そういうと、船頭は煙草を海に投げ捨て、オールをゆっくりと漕ぎ始めた。

 どこかから高い鳴き声が聞こえた。黒い背中がゆうるりと遠ざかっていく。鯨だろうか。

やがて、黒い点のようだった島が、ぐんぐん大きく迫ってきた。

岩肌がのぞく小高い山。南国風の密林。岩場あり砂浜あり。北緯24341東経14135。ここが、あのとき地図に残った穴の場所だ。

この島は地図には記されていない。近い島の人間さえ知らないか、口に出さないようだ。おれは、ヤマジが残した緯度と経度だけを頼りにやってきた。一番近い漁港で、この島を知る船頭に出会えたのは、おれにとっちゃ人生で一二を争うラッキーだったんだろう。

小舟は島の砂浜近くの浅瀬でとまった。

「こっからは自分でいっとくれ。遠浅だて溺れやせんわ。わしはここで寝とるから」

いうなり船頭は小舟に横になる。

おれは靴をぬぎ、ヤマジを抱きかかえた。

泣きたくなるくらい小さい子豚になってしまった。

南の太陽でぬくめられた水温は心地よく、細かい砂底に足が沈む。

ヤマジのしっぽがぴくりと動く。

ゆっくりと一歩踏み出す。足もとを魚がかすめていく。

ヤマジは、おれの口座に、お金を少しずつ振り込んでいた。たぶんばあちゃんが貯めていた全財産をおれに移行したに違いない。こんなことなら最高級のメシをおまえに食わせたのに。

また一歩。ヤマジの人懐っこい目。そうだ。着いたよ。

ヤマジは、タイムマシンの漫画を描くために調べた膨大なデータと、絵コンテをファイリングしていた。おれに絵は描けないが、この絵コンテと資料をもとになんとかアニメのシナリオが書けないものか考えている。でないとクラウドの果てにおれらの名作が埋もれちまうからな。

くそヤマジ。どでかい宿題のこしやがって。

浜辺まであと数歩。

浜辺にびっしりいた海鳥たちが、一気に飛び立つ。

鳥たちがいなくなった浜には、一匹の犬がいた。おれたちを見つめていた。柴犬。人に飼われていた犬だ。


捨てられた動物たちの島があるんだ。

何それ。漫画?

わかんない。今なんか急に。誰かに、あれ、自分で考えたのかな。

アパートの中庭で、くるくる頭のヤマジがいつものように地面を釘でなぞっている。

動物って。人が捨てた猫とか犬とか?

うん。ほかにもいろいろ。どうしようもなくて、でも死なせたくないからさ。

へえ。なんかずるいな。

しょうがなかったんだ。たぶん。

島に連れてこられるんだ。

うん。

でもさ、そいつら、生きてけるの? 餌とか水は。

水はある。南の島で果物とかもあるんじゃないかな。ただ弱肉強食の世界だから大変なんだ。だから、進化するんだよ。生きるために。たとえば一匹の犬が道具を使えるようになったりさ。

へえ。じゃ、アタマよくなっていつか自分を捨てた人間と戦うんだな。

そんなことしない。

地面の線がいびつに丸くのび、結ばれた。

もうちがう世界にいるんだから。でも忘れない。待つのをやめても忘れない。


陽の光を浴びて揺れるおまえの巻き毛。あのとき、おまえが描いた島がここにある。

やっと入れた。おまえの世界に。


浜辺にはどこからか動物たちが集まってきていた。犬や猫、タヌキ、イタチ。驚いたことに駝鳥や河馬までいる。高い岩場の上から見下ろしているのは豹だろうか。

ついたよ。

砂浜にヤマジをおろし、首の青いリボンをはずしてやった。おれが書いたおまえのなまえ。

ヤマジは少し歩きだし、待つようにおれをふりかえる。

おれは、首をふって、行けと手で示す。

だいじょうぶ。おまえなら。ここはおまえの島じゃないか。

一匹の黒い班のあるぶたが、ヤマジに近づいてきた。ヤマジより大きいが、たぶんミニぶただろう。遠巻きにしていた動物たちがヤマジを囲み、楽しそうにじゃれながら去っていく。

ヤマジ、元気でな。

最初にあらわれた柴犬だけは、じっとおれを見つめたままだ。

頼むよ。ヤマジは動物の新米で、おれの友だちなんだ。

つい人間にするように会釈をすると、柴犬はくいと顎をあげて、走り去った。

島に背を向け、浅瀬に漂う小舟にむかう。


かっちゃん。ありがとう。


振り返ると、浜辺には海鳥たちがまた集いはじめていた。


小舟では、アシカが横になっていた。

「帰ったよ」

アシカはあわてたように、するりと船頭のなりに戻ると、「おう」といってオールを握りしめた。

おいおい。とんでもないな、この世界ときたら。

ぶただったヤマジの青いリボンを握りしめる。

待ってろよ、ヤマジ。あがいて、やりとげて、またここにくる。おれたちの名作を見せにくる。

だから、生き延びろ。



(END)




#創作大賞2023 #ファンタジー小説部門


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