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書物の転形期15 洋式製本の移入12:小括

パターソンの伝習以前における洋式製本の移入

 従来、日本の洋式製本は印書局に招かれたパターソンの伝習によって始まるとされてきた。しかし、それ以前の洋装本の存在もしばしば指摘されてきた。本章の目的は、曖昧模糊としていたパターソン伝習以前の洋式製本移入の実態を、系統立てて記述することだった。初期の洋装本を一つ一つ掘り起こし、ためつすがめつする作業で明らかになったのは、パターソンの伝習以前に洋式製本は確実に日本に移入され、1873年にはすでに民間で国産の洋装本を製作できる職人や工房が活動していたということである。やや長くなったこの章を終えるに当たって、洋式製本の移入に至る道筋を簡単にまとめてみたい。

模倣から移入、規範化へ

 洋装本の製作は蘭書の修復や模倣から始まった。『独々涅烏斯草木譜』の修復には、洋式製本の基本に従いながらも、細部に和本の技法が見られる。この本は、洋式製本の工程をそれなりに学んだ和本職人らしき製作者によって修復されている。

 幕末の長崎版和刻洋書になると、洋式製本技術の受容がより進んだ。和刻洋書とは「幕末に、金属活字による活版印刷によって、舶載された洋書の翻刻・編集などを行い、洋装本として作成し刊行された書物」のことだが、活版印刷技術の移入とともに、洋式製本の技術も移入されたのである。

 開国後に洋学の技術的優位性が認められるにつれ、洋学機関では西洋の文物を規範化する動きも出てくる。書物も例外ではなく、蕃書調所は洋学教本の刊行に当たり、洋式製本を在来の素材を使いながらできる限り再現しようとした。それらは二点でかがり綴じをする簡易な仮綴じ製本で製作された。これは薄冊の蘭書に見られる製本だが、『英吉利単語篇』には和本の技法も見られる。広く国内の需要があった同書の製作には和本職人の関与があったと考えられる。『英吉利単語篇』は幕府瓦解後も数年受容があり、民間書肆によって同様の製本で翻刻されている。

 幕末の洋式製本にはすでに二つの流れがある。一つは長崎版和刻洋書のようなかがり上製本につながる本格的な製本。もう一つは大量に生産される教本類の仮綴じ製本のような簡易な製本である。

米国版教本の輸入

 明治初期に、日本における洋式製本の規範は蘭書から英書に換わる。19世紀西欧の製本は、工芸的な製本から工業的な製本への移行が進んでいた。特に北米では教科書会社の過当競争によって、簡易な製本技術による膨大な数の教本類が出版されていた。福沢諭吉が北米から持ち帰った大量の教本類は英学教本の規範となり、さらに多くの北米版教本が輸入され、全国の英学塾や学校に広がった。後に印書局が製本師を招くに当たり、教科書出版で知られる米国ニューヨークから雇うべきという見解を示したのはそのような文脈による。明治政府にとって洋式製本は、洋紙や活版印刷と並んで知をコンパクトに広める実用的な容器を作るための最新のテクノロジーであった。富裕層が好みの製本を仕立てる工芸製本の伝統を彼らは知らず、仮に知ったとしても関心を持つことはなかっただろう。

 米国版の教本は、ボールの芯に総クロス表紙か、背クロス・背革の紙貼り表紙で、抜き綴じのものがほとんどである。ロビンソンの算術書やパーレーの万国史などがこれである。薄冊のものは、テープ二枚で平綴じにし、背と表紙に段差がある「南京」の背の形状を持つものが多かった。ウェブスターのスペリングブック("Blue-back")が代表的なものである。このうち、ボール表紙抜き綴じの製本は1870年代後半の政府刊行物や啓蒙書の製本につながっていく。一方、いち早く簡易な製本として使われたのは、平綴じの製本だった。

簡易な平綴じ製本

 洋式製本移入期の平綴じ製本の流れはさらに二つある。一つはスペリングブックの製本をコピーしたものである。福沢と親交があった尺振八の英学塾共立学舎は、1872年『傍訓 英語韵礎』を刊行する。これは緒紙袋綴じ整版の本体を持ち、和紙を重ね貼りした表紙を持つが、テープ二本で平綴じした「南京」型の背クロス本であり、スペリングブックの製本様式を忠実に写し取っている。当時和本形態が多かった国産の英学教本に対し、共立学舎はあえて米国版の薄冊教本の製本様式を再現しようとしたのである。ここには英語を内容だけではなく、情報容器としての書物をも含んだものとして移入しようとする徹底した欧化への意志を見て取ることができる。開成所の『英吉利単語篇』と同様に、英学の世界では洋装本を規範化しようとする人々がいた。

 もう一つの流れは、北米のパンフレット製本を応用するものである。『解体学語箋』は大学東校の学生のノートを文部省が買い上げ、1871年須原屋伊八に刊行させた解剖学用語集である。この製本の特徴は、平綴じされた本体用紙の綴じ糸を、「南京」型の背の背クロス部分に当たるところに配置して、背クロスの内側に貼り込んで固定するところにあり、後年の「ボール表紙本」よりも丈夫な製本である。この製本は北米の製本術書に紹介されている帳簿やパンフレットに使う技法と酷似していた。帳簿や書類の簡易な製本は居留地の商業活動にも必要な技術であり、その周辺に洋式製本ができる職人や工房がすでに存在していた可能性がある。

 大蔵省は最も早く洋装本化に取り組んだ政府機関のひとつだった。1872年11月、『解体学語箋』と同様のパンフレット製本で『国立銀行条例 附成規』を刊行した。事の性質上、大蔵省の刊行物として刊行しなければならなかったが、当時大蔵省自体が製本職人や工房を持っていたとは考えられず、民間の職人に製本させた可能性が高い。

 大蔵省は翌年から『大蔵省布達全書』を毎年洋装本で刊行した。『明治五年 大蔵省布達全書』(1873)は、和紙をプレスした芯にマーブル紙を貼った表紙で、「南京」型の平綴じ製本であり、『解体学語箋』『国立銀行条例 附成規』と同様の製本であった。しかし、その後の『大蔵省布達全書』はクロスの厚表紙で背革丸背のかがり製本となり、さらにかがりの部分を数本の麻緒で平綴じにする打ち抜き綴じ(「ぶっこぬき製本」)に取って代わった。『大蔵省布達全書』のような官製の法令集が体現しようとする背革丸背厚表紙という洋書の規範的スタイルと、製本冊数、職人や工房の処理能力との間で選び取られた製本技法だったのであろう。

かがり上製本の国産化

 かがり上製本の移入は上海から始まった。J.C.ヘボン編『和英語林集成』の初版は1867年、上海のAmerican Presbyterian Mission Press(美華書館)で印刷されたものだが、1872年までに刊行された美華書館による初期の辞書製本のほとんどは、四丁立て総綴じで「綴じ付け製本」を行っており、基本に忠実な堅牢な製本である。一方で、『和英語林集成』の二版(1872)、そして『改正増補 和訳英辞書』の増補再版である『大正増補 和訳英辞林』(1871)になると、手間のかかる「綴じ付け製本」から、耐久性は落ちるが簡易で製本の効率がよい「くるみ製本」へと移行する。この二つの辞書は広く普及し、発行部数も多かった。また、表紙の芯もミルボードではなく新素材のストローボードを使用している。このように、上海で辞書が製作された時期は、「綴じ付け製本」から「くるみ製本」へという工業的製本への移行期に当たっている。『和英語林集成』『大正増補 和訳英辞林』のように、売れ行きのよい辞書にそれが反映している。

 国産の辞書製本もその移行期の中で始められる。八折り判の比較的小型の辞書がまずは洋式製本で製作された。『浅解 英和辞林』(1871)、『英和字典』(1872)、『孛和袖珍字書』(1872)などである。表紙の芯に和紙の重ね貼りを使用することなどから、国産のかがり上製本であると判断できる。これらはいずれも民間書肆によるものであるが、『孛和袖珍字書』のように上海の辞書との技術的な共通点を指摘できるものもある。居留地などを通じて上海の製本技術が伝授された可能性があるが、文献的な証明はできない。

 四折り判の大型辞書では、日就社の『附音挿図 英和字彙』(1873)が国産としては確かなものである。表紙の革装は上海で箔押ししたという逸話が残っているが、表紙の芯は和紙の重ね貼りである。上海ならミルボードかストローボードを使うはずであり、国産と見られる。『附音挿図 英和字彙』は初版でも造本が全く異なる本が三種類ある。同書は政府が「製本四千二百二部」を買い上げたが、これだけの製本を一手に引き受けるだけの規模を持つ工房はおそらく無かったのではないか。また、「初版」とあるが、製本も同時に完了したとは考えられない。『附音挿図 英和字彙』初版の製本には複数の職人・工房が関わったのであろう。後に印書局が未製本の本を大量に御用書肆に払い下げている例もあり、当時の洋式製本職人や工房の数がまだ十分ではなかったと考えられる。

1873年、洋式製本の地歩が固まる

 1873年には『和訳英語聯珠』など他の国産辞書も刊行された。さらに、一般書のかがり上製本もこの年に現れる。医学の専門辞書法令集を中心とした法律書がその先鞭を付けた。

 医学の専門辞書は辞書の一種だが厚冊ではなく、四六判程度の大きさで抜き綴じや平綴じが使われていた。洋式製本を採用したのは頻繁なめくりの負荷に耐える必要があったからだと考えられるが、他の分野の専門辞書に先行して取り入れたのは、やはり医学と洋学の長きにわたるつながりが洋装本を規範として受け入れやすくしていたということであろう。須原屋伊八や島村利助といった大学東校や文部省に出入りする御用書肆が、それらの製本を手配した。

 一方、新政府の混乱に伴って法令が乱発されていた。官公庁がいち早く洋式製本を採用したのが、『大蔵省布達全書』のような、布達や法令をまとめた法令集だった。金属活字による文字の縮小と、緒紙袋とじの半分以下の厚さになる洋紙両面刷りは、情報密度をそれまでの板本から飛躍的に向上させたが、それを書物としてまとめる洋装本の技術もまた、増加し続ける情報をコンパクトにするためには不可欠だった。『新律綱領改定律例対比合刻』は司法省の御用書肆である須原鉄二の刊行である。医学書と同様に洋装本化をリードするのは官公庁からの発注であった。

 しかし、官公庁自体に製本できる部署は無かった。一般書は開化の先導である官が発注し、御用書肆が民間の職人や工房に製本を請け負わせるという仕組みだったと考えられる。つまり1873年には官公庁の洋装本と辞書の製本を引き受けることができる職人や工房が十分とは言えないまでもそれなりの規模で存在したと考えられるのである。この時期に洋装本の外形が広告されるようになったこともそれを間接的に示唆している。1873年は洋装本の持続的な製作環境が整ったという点で、本邦洋装本史上最初の画期と言える。

 したがって、パターソンを本邦洋装本の創始者とする見解は修正されねばならない。だが、それによってパターソンの伝習の意義が損なわれることはない。パターソンの意義とは、一つは洋式製本の規範を示したということであり、もう一つは御用書肆を中心とした民間書肆の本が一斉に洋装本化する1876年という第二の画期を直接に準備したということである。この第二の画期によって洋式製本は移入の段階から、日本固有の技術的・文化的展開の段階へと進むことになる。いわば本邦洋装本史のブースターだったパターソンの製本と伝習については、次章で詳しく述べたい。

 なお、もう一つわかったことがある。それは日本の洋式製本には北米大陸の影響が大きいということである。米国版教本の輸入と模倣があり、上海美華書館という米国のミッションプレスによるかがり上製本の輸入がある。そしてパターソンも英領カナダ人だった。北米大陸というコロニアルな場の地理的・文化的・歴史的な条件と、工業的製本の普及という技術史的な条件を念頭に置いて、日本の洋式製本について考察する必要がある。本家であるヨーロッパの製本とのみ比較しても、日本の洋式製本の特徴は明らかにならないだろう。(この章終わり)

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