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「100年くらい前の本づくり」展こぼれ話2:本体と表紙

切断された支持体

 洋式製本は複数の折丁を綴じ糸で縫い合わせていくが、その際に綴じ糸を支えるために丈夫な革・布・麻などの支持体を用いる。支持体にはもう一つの役割があって、支持体の両端を表紙の芯と接続することで、本体と表紙をつなぐのである。

本綴じ・抜き綴じ

 本体と表紙のつなぎ方には大きく分けて二つある。一つは伝統的な「綴じ付け製本」で、支持体を表紙の芯に直接結び付けて表紙と本体を一体化した上で、表装材で表紙をくるむ。この方法は本体のかがりから表紙をくるむまでが一連の工程となる。

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綴じ付け本。支持体(麻)が表紙の芯の表側にまわる。(『改正西国立志編』改装本〔武田蔵書〕、七書屋、1877、市谷 本と活字館蔵:展示作品10、写真:白石和弘)

 一方、19世紀に書物の大量製本を可能にしたのが「くるみ製本」である。これは本体とは別に表紙の芯と背をつないだものをあらかじめ作っておき、本体にかぶせて接続するものである。支持体は見返しと芯の間に貼り込むだけで手間がかからず、また本体と表紙を別々の工程で作ることができるため製本の効率化を図ることができる。くるみ製本は支持体を見返しの裏に貼り込んでいるためにそこが隆起するので見分けやすい。

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『仏蘭西法律書』上巻(印書局、1875、個人蔵、展示作品2)。右が見返し、左が遊び紙。ノド依りの見返し部分に支持体の隆起が確認できる。

 印書局で1875年に製作された『仏蘭西法律書』上下巻は、パターソンが手がけた1000ページ前後の総革装の厚冊本である。この本は1876年と1878年に同じ総革装の翻刻本が複数の御用書肆から刊行された。パターソンによって伝習された印書局の洋式製本技術が、民間書肆の刊本に広まっていくきっかけとなる本である。前回のコラムでも触れたように、『仏蘭西法律書』上巻の初版は3000部印刷されたが、印書局が製本できたのは600部程度であった。その一つと思われる初版本が内閣文庫に所蔵されているが、現在は改装されている。改装前の同書は、佐藤祐一「パターソン研究ノート(その5)」(『コデックス通信』1巻5号、1987.3)によれば綴じ付け製本であった。厚冊本の耐久性を考慮して丈夫な綴じ付けを行ったらしい。しかしパターソンと数人の製本生徒の作業では、手間のかかる綴じ付け製本3000部は処理しきれなかったものとみえる。

 残り2000部余りは民間書肆に無製本のまま払い下げられた。このうちの一つと思われるのが巻末に博聞社の奥付を持つ展示作品2の初版本で、くるみ製本である。製造ラインを本体と表紙の二つにして効率的に製本できるくるみ製本が採用されたのは、処理しなくてはならない膨大な部数からも理に適っている。パターソンが直接伝習したのか、あるいは伝習を受けた製本師が工房に入ったのかはわからない。1873年にはすでに洋式製本は民間でも行われていたので、それらの職人を使うこともできたであろうが、装幀まで全く同じであるという点から見ても、やはり印書局と何らかの技術的関係があったのではないか。

 そして1876年版と1878年版の御用書肆による『仏蘭西法律書』が刊行される。この二つの版は新たに活字を組み直して印刷されているが、装幀は印書局版のコピーである。坂上半七など複数の御用書肆が刊行したこの版によって、洋式製本術が本格的に民間に広まっていくことになる。

 ところが、今回この1876年版と1878年版を解体調査したところ奇妙な共通点があった。両方とも支持体の両端が切断されていたのである。

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『仏蘭西法律書』上巻(坂上半七、1876、展示作品3)、本体(左)と表紙(右)をつなぐ支持体が認められない。

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『仏蘭西法律書』上巻(坂上半七、1878、展示作品4)、同様に本体(上)と表紙(下)をつなぐ支持体が認められない。

 支持体によって表紙と本体が接続されていない本は、本体と表紙を見返し紙一枚で接続する貼り見返しになる。表紙と本体の接続部は書物の中では最も動く部分で大きな負荷がかかるので、重量のある本や表紙の芯が厚いものを貼り見返しにすると破れて本体と表紙が分離しやすくなる。展示作品3の1876年刊坂上半七版は、本体と表紙の間に布テープを貼って補強した跡があるが、見返しの紙はおそらく元のものであり、支持体が無かったために分離した本体と表紙を後に布テープで補修したようだ。

 ならば本体はどうであろうか。「コプト綴じ」のような支持体を使わないかがりもあるが、『仏蘭西法律書』は支持体を使っている。では支持体の両端はどうなっているのかというと、短く切断されて背のヤレ紙の上に貼り付けられている。

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展示作品3、三つの支持体の端が短く切られ、背貼りの紙に貼り付けられている。

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同上、支持体の端(中央)

 展示作品4の1878年刊坂上半七版では、支持体は本体の幅に合わせて単純に切断されており、背貼りに貼り付けることさえしていない。

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展示作品4、背に支持体の貼付は見られない。背のヤレ紙には「明治十一年五月」という記載が認められ、出版時(1878年)の製本である可能性が高い。

 洋式製本の常識から逸脱した支持体の切断は何を物語っているのだろうか。

二つの書物観

 解体調査された岡本幸治氏は、このような支持体の切断は明治初期の洋装本にはよく見られると指摘された。それについては自身も思い当たる節があった。明治期の洋装本を調査していると、本体はかがっているにもかかわらず、見返しに支持体の隆起が認められない本がいくつも見つかるからである。にもかかわらず支持体の切断ということに思い至らなかったのは、支持体の両端は表紙と本体をつなぐものだという洋式製本の常識に基づく先入観があったからである。

 支持体の切断の理由として考えられるのは、製本作業のさらなる効率化である。本体と表紙を異なる工程にしたくるみ製本であっても、最後は支持体の端を表紙に貼り込む形で処理しなくてはならない。しかし、支持体を切ってしまえば、本体と表紙を見返し紙一枚で貼り合わせればよいだけで、作業工程は格段に減り技術も必要としない。『仏蘭西法律書』は当時の厚冊総革装の洋装本としては破格の出版部数であった。パターソンの洋式製本術が民間に伝播した直後の段階で、すでに書物の強度を度外視したこのような簡略化がなされていたのは驚きというほかない。

 興味深いのは、内閣文庫に所蔵されている1878年版上巻には同じ坂上半七版でも綴じ付け製本のもの(ヨ320-47I)も見られるということである。同じ書肆であっても製本時期や工房、職人が異なっているのであろうか。当時の寄せ集め的な洋式製本の実態がうかがえるのである。

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『仏蘭西法律書』上巻(坂上半七、1878、内閣文庫蔵)、本体(下)から支持体が表紙の芯(上)の表側(芯と表紙の革の間)に貼り込まれている。綴じ付け製本。

 西欧の洋式製本は、柔らかい本体に堅い表紙を二枚貝のようにかぶせて保護する。ここには堅い外殻で柔らかい中身を守るという思想が根底にある。堅くて重い表紙と本体の接続部はもっとも壊れやすく、たとえ安価な平綴じの教科書でも見返しのノドには寒冷紗のような丈夫な布を貼り補強している。この部分の強度は洋式製本の要なのである。

 和本はちがう。板本書誌学をかじった人なら、次の一節は周知のことだろう。

これが板本となると、いわば紙を糸でからげただけの、実に頼りない外見なのだが、本自体の軽量さと極めて簡略な造りが幸いして、そうした事故(木戸注…書物の破損)は殆ど起らない。よしんば糸が切れていたにせよ、その繕いは木綿針と手頃な糸がありさえすれば、その場で出来る。(中略)表紙が折れたり、中身の紙がヨジレたりしていたとしても、少し丁寧に折れ目をもと通りにし、上に少し厚手の、広辞苑でも載せて半日でもおけば元通りになる。紙のヨジレ位は指先で皺のばしをして手の平でしばらくおさえれば、二、三分で大体は直る。(中略)これすべて和紙という、世界に冠たる文化財の持つ極めつきの柔軟さと強靱さのゆえである。(中略)江戸の板本というものは、このように、和紙の柔らかさと軽さと、それゆえの勁さとを、極めて簡略な手作業によって纏めて一冊の本に造りあげているものなのである。(中野三敏『書誌学談義 江戸の板本』岩波書店、1995)

 和本は柔軟で糸と針で表紙の付け替えや本体の修復も自在である。本体と表紙も構造上は同じで、接続のための複雑な工程を必要としない。このような和本(特に江戸期の板本)に泥んでいた当時の日本人製本師が、洋式製本における本体と表紙の接続の重要性をじゅうぶんに理解できなかったとしても不思議ではない。書物というものに対する考え方が根本的にちがうのである。本体と表紙の接続部分の脆弱さは、日本の明治期洋装本の大きな特徴の一つになった。

 問題はパターソンがこのような簡略化に関わっていたのかということである。洋式製本の常識からは考えにくく、パターソンがこのようなことを教唆することはないというのがとりあえずは模範解答だろう。しかし『仏蘭西法律書』上巻の初版がそうであったように、この頃の印書局は許容量を完全に超える製本を受注していた。印書局が紙幣寮活版局に合併されるに当たって、民間書肆などに洋式製本を請け負わせることが急務になっていたのである。パターソン自身が高名な工芸製本師というわけではなく、居留地で職を得た一般書や帳簿の製本師であったことを考えると、何らかの簡略化の方法が伝えられた可能性も捨てきれない。パターソン伝習期の印書局ではボール表紙本や並製本の製作もしているのである。パターソンの技術的な懐は案外深かったのかもしれない。


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