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「100年くらい前の本づくり」展こぼれ話1:印刷時期と製本時期

 3月10日より、市谷の杜 本と活字館「100年くらい前の本づくり」展が始まった。縁あって監修という大役を務めることになったのだが、実のところこれは、製本や紙についてのベテランの先生方の知見と、博物館の展示チームの行き届いた企画に頼って少しだけお手伝いをしたということである。

 特に、製本と修復の専門家、岡本幸治氏による『改正西国立志編』『仏蘭西法律書』の解体調査に立ち会えたことは大きかった。氏の豊かな経験談をうかがいながら眼前で開示されていく当時の書物の内部を、私のなけなしの知識と照らし合わせていくことで、当時の製本と書物をめぐる視界が次々に開けていくのは快感ですらあった。そこで、今回の解体調査でわかったにもかかわらず、初心者向けの展示解説では触れえなかった点について、コラムを書いてみたいと思う。

背貼りのヤレ紙と製本時期

 かがりの洋式製本は、本文用紙をかがった上に背に紙を貼って補強する。背貼りの紙にはよく反古紙、つまりヤレ紙が使われる。木製の板を表紙の芯にした『改正西国立志編』(展示作品7)は木平譲の奥付を持つ版で、同書の諸本を調査した田中栞「『西国立志編』探書録」(『彷書月刊』199号~211号、2002.3~2003.3)に記載された諸条件と照らし合わせてみると、最も早い1877年の木平譲初期版に当たる。しかし、木製の板二枚に挟まれた洋紙を宍倉佐敏氏に分析していただいたところ、稲ワラ80%に針葉樹晒サルファイトパルプ(N-BSP)20%であることがわかった。N-BSPが国内で最初に生産されたのは1890年だそうである。稲ワラを含んでいることからおそらく国産紙であり、この本は1890年以降に改装された可能性が高い。解体調査の段階で岡本氏も、短く切った支持体によってかろうじて表紙とつなぎ、見返しのノドに補修の紙を貼っている点や、丸み出しを無理に行って前後の見返し近くの本文紙の位置がずれている点など、改装の形跡を指摘された。ただし、背革や表紙のクロスなどは原装を残している可能性がある。この本は原装の材料を維持しながら補修、改装されたのではないか。

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展示作品7『改正西国立志編』、支持体を短く切断し、背に貼り付けている。

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同上、裏見返し側の支持体。短く切断された支持体をかろうじて表紙の芯に貼り付けてくるみ表紙にしている。

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同上、地。小口の両端の角度が鋭角すぎる。

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同上、小口両端の鋭角の原因。無理に丸み出しをして本体用紙が画面左に崩れている。

 さて、この本を解体すると背貼りのヤレ紙が現れた。解読してみるとこれは『米国政治略論』(東洋社、1876.12)の一部であることがわかった。『改正西国立志編』の初版が1877年2月なので、その直前に出版された本のヤレ紙を使っているのはつじつまが合う。製本と出版がほぼ同時になされていたということになる。

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同上、背貼りのヤレ紙。

 気になって自分の調査画像のストックからヤレ紙の解読をさらに試みた。すると、刊記と製本時期がずれる例が出て来たのである。「書物の転形期」でも取りあげた『医語類聚』(名山閣、1873)は、最も早い民間製本の洋装本の一つだが、内閣文庫蔵の一本(E012415)の背貼りは『法例彙纂』(印書局、1876)のヤレ紙である。つまり扉の刊記と製本時期が異なっている。なお、内閣文庫にはこのほかに異装本がもう一本あり、こちらの背貼りは見ることができない。これは印刷時期も異なるのであろうか。詳細な版面の照合をしていないので何とも言えないが、仮に同じ印刷時期でも製本時期が異なる例は初期の洋装本では珍しくないようだ。

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『医語類聚』内閣文庫蔵(E012415)

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同上、背貼りのヤレ紙。

 解体展示のもう一つの目玉である『仏蘭西法律書』がそれに当たる。印書局版の『仏蘭西法律書』上巻は1875年に3000部印刷された。そのうち印書局では625部製本され、2003部が無製本のまま民間書肆に払い下げられたことが公文書から明らかである。民間書肆から『仏蘭西法律書』が刊行されるのは1876年から。つまり同じ印刷時期のものが異なる時期に製本され、世に出回ることになる。印書局はすでに紙型も製造していたが、このように印刷された本文をストックすることもあった

ヤレ紙から製本工房の実態へ

 『改正西国立志編』も版面が同様であるにもかかわらず、製本が異なるものが多い。今回の展示では展示作品7と8が同様の本文だが、7の改装本が原装の流用だと仮定すると、文字や革、装飾が異なっている。また、本文に使われている輸入洋紙の成分も違う。版面が同じでも印刷・製本された時期や工房が異なるということは十分考えられるだろう。『改正西国立志編』のようなベストセラーを一手に引き受け、同時に大量に製本できる工房は無かった。奥付や版面が同様でも、複数の工房によって数年かけてその都度製本され流布していたのではないか

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『改正西国立志編』、上から展示作品9、7、8

 ヤレ紙からは初期の洋装本の製本工房と製本技術の関係も分かる。展示作品7のヤレ紙は東洋社の『米国政治略論』であることはすでに述べた。東洋社は元老院にいたフランス法学の専門家で、『仏蘭西法律書』の訳者箕作麟祥の弟子でもあった大井憲太郎が元老院を辞めて作った印刷所だった。東洋社は慶應義塾出版社よりも早く、ボール表紙本で啓蒙書を出版していた。『米国政治略論』も元は1873年に文部省から和本で出版されたものだったが、東洋社は簡素なボール表紙本で刊行していたのである。『改正西国立志編』のような背革クロス表紙の厚いかがり製本を手がける工房が、同時にボール表紙平綴じ南京の簡易な製本も手がけていたことになる。これは印書局でパターソンが両方の製本技術を伝習したこととも一致する。後に戯作本がボール表紙本となり粗製濫造されるようになると、ボール表紙本を手がける工房が本式の製本をする技能を持たない場合が多くなり、ボール表紙本が廃れた後はそれらの工房は並製本を専ら手がけるようになる。

 民間の洋装本だった『医語類聚』のヤレ紙が印書局の『法例彙纂』だったというのも興味深い。『法例彙纂』は御用書肆の博聞社でも印刷出版された。このヤレ紙自体からはどちらのものかは判断できないが、印書局が紙幣寮に移る際に作られた目録では『医語類聚』についての記載が無いので、博聞社で製本が行われていた可能性が高い。博聞社は『仏蘭西法律書』の未製本分を引き受けた形跡もあるので、御用書肆の中では洋式製本技術を当時としては大規模に取り入れた出版社であったらしい

 このように、ヤレ紙一つからいもづるのように、当時の製本時期や製本工房の実態についての手がかりが得られるのである。





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