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書物の転形期11 洋式製本の移入8:辞書と民間製本

英学機関の御用書肆と辞書の洋装化

 幕府の開成所が英語辞書や単語集を刊行していたことはすでに述べた。『英和対訳袖珍辞書』や『英吉利単語篇』は幕末から明治初期にかけて需要があり、版を重ねるうちに開成所に出入りする民間書肆が印刷発行を請け負うようになった。そのような書肆の一つに蔵田屋清右衛門がある。蔵田屋は『英和対訳袖珍辞書』三版を1867年に木版和本で出版し、1869年には再刊した。そして、『英吉利単語篇』を1870年に初版同様の簡易な中綴じの洋式製本で出版した。

 その蔵田屋が1871年に出版した英和辞書が『浅解 英和辞林』である。これは『和英語林集成』のローマ字を仮名に直したもので、ヘボンに訴えられたといういわく付きのものだが、序言で初めて横書きの日本語が採用された書物としても知られている。二番煎じの辞書ではあるが、仮名の活字は文部省から借り受けたもので、英学に対する官民の需要に応えようとしたものでもあった。この辞書を蔵田屋は洋装本で刊行したのである。

 原本は未見である。しかし、国会デジタルコレクションの画像を見る限り、四六判総クロス装マーブル紙の見返しを持つかがり製本のようである。四六判ならば、おそらく八折本(八丁立て)であろう。これが管見では明治以降に製作された本邦最初のかがり上製本の書物である。

 もう一つの書肆は大学東校に出入りし、『解体学語箋』を1871年に刊行した須原屋伊八である。須原屋伊八は、共立学舎の設立メンバーの一人でもあった吉田賢輔等の『英和字典』を「明治壬申仲夏」(扉)すなわち1872年5月に刊行した。

○英和字典 知新館蔵板
右者英人ニユッタル氏ノ字典ヲ原トシ傍ウヱブストル氏ノ字典ニ就キ発声ノ調符〈シルシ〉ヲ表シ且翻訳ニ従事スル人ニ便ナラン為メ英華字典ノ訳字ヲ抜萃シ装本ノ体裁彼ニ模擬スルヲ以テ提携ノ労ナク近来至便ノ字典ナリ
 浅草茅町二丁目 須原屋伊八
 本石町二丁目 椀屋喜兵衛
『新聞雑誌』1872.10

 この出版広告では「英華字典ノ訳字ヲ抜萃シ装本ノ体裁彼ニ模擬スル」とあり、『英華字典』の装幀を模倣したとある。これがロブシャイドの『英華字典』だとすると、四折本で革装の分冊本だった『英華字典』と、四六判の『英和字典』とは寸法も体裁も異なる。この広告は洋装本にしたという程度の意味であろう。なお、ここに名を連ねている椀屋(江島)喜兵衛も、仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』や開化期の啓蒙書を多数刊行しており、後述するが書物の洋装本化にも志があった。

 『英和字典』には次のような広告もある。

字典 洋紙 八円 和紙 七円
方今奎運隆旺の際に当り泰西の語日に月に盛に行ハる〻ハ盖し彼我対訳字書の功に因れり是を以辞書の発兌するもの亦尠からす然れとも彼に略して此に詳也此に疎にして彼に密なるあるを以て或ハ看官をして隔靴の歎あらしむ今茲に壬申仲夏知新館に於て開版せる英和字典ハ英人ニユツタル氏の字典を本とし傍ウヱブストル氏の大字典に就き発声の調符を表し務て応用に切なるの語を摭出し翻訳に従事するの人をして捜索に便ならしめんか為英華字典の訳字をも裙用し大に進歩の裨益を得せしむ
   知新館
  英和字典発兌
 東京浅草茅町二丁目 須原屋伊八
 同 本石町二丁目 椀屋喜兵衛
 横浜本町六丁目 活版社
(『横浜毎日新聞』、1872.11.8)

 『英和字典』は整版(木版)で和本も確認できるが、一方で洋紙両面刷りの洋紙本と、和紙袋とじの和紙本という二種類の洋装本を同時に刊行していた。洋紙本は八円、和紙は七円でいずれも高額である。後に洋装本普及の過程で、和本を和紙袋とじのまま洋装本にすることが流行したが、これはその先駆的事例である。

 内閣文庫蔵の洋紙本(内閣文庫、E012419)は、縦19.0㎝×横13.2㎝、本体用紙は縦18.5㎝×横12.5㎝。黒の総クロス装丸背で花布を持つ。本文用紙は二丁抜き綴じだが、折丁の丁数が不規則なようである。整版のため、どのように面付けしているのかは不明。支持体は三本で溝付きのくるみ製本、表紙の芯はストローボード。見返しは二枚のマーブル紙をクロスで連結しており、天地小口の三方に赤のふりかけ装飾がある。今まで見てきた四折判四丁立て総綴じの辞書に対し、半分の八折判で折丁の丁数も多い。つまり綴じ糸への負荷が大きいのだが、にもかかわらず綴じは耐久性に劣る抜き綴じが採用されている。辞書に適した製本がなされているとは言い難く、通常の書籍としての製本である。ただし、本体用紙の厚さは2.5㎝でそれほどの厚みはない。辞書特有の頻繁なめくりを度外視すれば、通常の書籍の製本を採用するという見極めも理解できなくはない。なお、和紙本の原本は未見である。

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『英和字典』、内閣文庫蔵(E012419)

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同上、扉

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同上、見返し

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同上、溝付きの丸背と編んだ花布。

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同上、表紙の芯

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同上、支持体

『孛和袖珍字書』

 1872年には蔵田屋清右衛門が独和辞書を刊行している。『孛和袖珍字書』(ふわしゅうちんじしょ、学半社蔵版)は1872年10月に刊行された。架蔵本によれば縦17.0㎝×横12.5㎝。本体用紙は縦16.0㎝×横11.3㎝。いわゆる四六判に近い寸法である。緑着色の背革に茶の紙クロス表紙丸背で花布を持つ。なお、国文学研究資料館蔵本(コ3:18)は赤着色の背革、国会図書館本は黒い表紙に黒着色の背革、早稲田大学蔵本は角革と小口装飾を持っており、いずれも異装本である。本体用紙は厚さ7.1㎝の厚冊で細い綴じ糸を使った八丁立て総綴じ、四本の支持体による綴じ付け製本である。見返しはマーブル紙。『和英語林集成』初版と同様に、表紙と後ろ表紙をつなぐ寒冷紗の補強もなされている。特徴的なのは表紙の芯である。和紙を重ね貼りしてプレスしたものであり、これは先述の『明治五年 大蔵省布達全書』や、後述する『附音挿図 英和字彙』初版と同様に輸入ボールの代用として使われたものである。背の隙間から背紙が確認でき、墨書の跡があるようだが判読できない。長岡屋新助、高木和助、鈴木喜右衛門が「東京書肆」として名を連ねており、売捌であろう。早稲田大学蔵本にはこの記載がない。

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『孛和袖珍字書』、架蔵本

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同上、背

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同上、扉。ドイツ語の扉の下行に"Kurata"とある。

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同上、和紙を重ね貼りした表紙の芯

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同上、見返しノド。支持体が四本ある。

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同上、天。溝はなく、花布がある。

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同上、表紙と後ろ表紙を連結する寒冷紗。

 『孛和袖珍字書』の製本は、上海の辞書と比べても遜色がないばかりか、寒冷紗の使用など共通する技術的特徴もある。表紙の芯に国産の代用素材が使われていることからも、この辞書は日本で製本されたと考えられるが、同様の特徴を後述の『附音挿図 英和字彙』も持っており、美華書館など上海の製本技術が伝播した可能性はある。それはともかく、本格的な国産のかがり上製本は、印書局におけるパターソンの伝習に先立つ1871~2年の間に、民間で製作が始まったということになる。(この節つづく)

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