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書物の転形期20 パターソンの洋式製本伝習5:印書局の北米コネクション2

バンクロフト書店とチップマン

 チップマン・ストーン商会は米国人C. S. Chipman とN. J. Stone が経営する貿易会社である。「居留地人物・商館小事典」(横浜開港資料館編『図説横浜外国人居留地』、有隣堂、1998)では米国貿易商会の前身とされ、「1871年来日したチップマンの店に起源を持つ。当初は主として書籍や文房具を販売していた。1875年チップマン、ストーン商会となり」とある。しかし、1874年版の "The China Directory" にはチップマンとストーン、そして後に書籍・文具・印刷業を引き継ぐウェットモア(F. R. Wetmore)が共に横浜居留地28番に記載されている。ディレクトリーの記載内容は基本的に発行の前年の情報に基づいているので、1873年にはこの三者が横浜で商売をしていたことがわかる。書籍販売業から始めたチップマンであったが、途中から時計・計器など機械類を中心にした輸入に商売の中心を移し、当初の商売をウェットモアに任せるようになったらしい。両者の広告が1876年の "Japan Gazette, Hong List and Directory" に見開きで並んで掲載されている。おそらく、印書局の機械類輸入をほぼ一手に引き受けるようになり、そちらの方が実入りがよくなったのだろう。

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ウェットモア商会とチップマン・ストーン商会の広告。Japan Gazette, Hong List and Directory、1876、内閣文庫蔵(E000638)

 日本の洋式製本の父とされているパターソンについては、『大蔵省印刷局百年史』第一巻(1971)と、佐藤祐一「パターソン研究ノート」(その1)~(その8)(『コデックス通信』1巻1号~2巻5号、1986.4~1988.5)の二つがまず拠るべき研究である。特に佐藤論では印書局製本の調査もなされており、パターソンに関する直接の資料はこの論に言及されているもので今のところはほぼ尽きている。その佐藤論が細川潤次郎とチップマンの関係を示唆する次の資料を挙げている。

米国人チツプメンと云ふ者、横浜居留地七十一番にて米国桑港の書肆バンクロツトの手代であつたが。嘗て細川潤次郎が渡米した時、同店にて読本類を購入した。其の時チツプメンは日本に斯の如き書籍の読者があるかと尋ねたので、細川氏は日本には英文を解する者が頗る多く、又英文の書籍の輸入を希望して居ると話したことがあるが、其れが動機となつて彼は我国へ渡航し開業したのであると語つた。其の後、七十一番のチツプメンは米人ストーンと共同して雑貨の輸入商となり、書籍部はウイツトモーと云ふ者に譲り、二十八番へ転じ、後にケリー商会に譲り、今の横浜ケリー商会として書籍業を継続して居る、これが米人が横浜にて書籍店を開業した嚆矢である。
(小林善八『日本出版文化史』、日本出版文化史刊行会、1938)

チップマンがサンフランシスコのバンクロフト書店の「手代」で、細川渡米の際に接触し、読本類(教本であろう)の読者が日本にいることを確認して、横浜で書籍店を開業したとある。記述者の小林善八(鴬里)は『図書月報』などに関わった出版界の情報通だが、この話を誰が「語つた」のかはわからない。これだけでは真偽不明だが、これを裏付ける傍証はいくつかある。

 細川は渡米中に三軒の書店を訪れている。その一軒目が6月18日に訪れたサンフランシスコのバンクロフト書店である。

十八日過書肆盤古刺弗多バンクラフト氏選択有益書籍購数部而回寓
(『新国紀行』上)

細川がここで購入した「有益書籍」が教本類だった可能性はある。その後、細川は6月24日にサンフランシスコ第二のローマン書店、そして8月2日には幕末に福澤諭吉が大量の教本類を購入したニューヨークのアップルトン社を訪れている。バンクロフト書店は1852年に歴史家のHerbert Howe Bancroft が開業した西海岸最大の書店兼出版社である。1869年には事業を兄のAlbert Little Bancroft に譲り、その後カリフォルニアの地図やサンフランシスコのポケットマップの出版で知られるようになった。

 では、バンクロフト書店とチップマンの接点はあるのだろうか。バンクロフトは1872年に日本人向けの英語教本を出版している。教本の著者は『ミカドの帝国』("The Mikado's Empire" 1876)で知られるW. E. グリフィス William Elliot Griffis 。その教本の一つ "The New Japan Spellingbook" の発行元は、"SanFrancisco A.L.Bancroft" と "Yokohama Stone & Chipman" の連名である。

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The New Japan Spellingbook、1872、内閣文庫蔵(E013381)

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同上、表紙

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同上、扉

さらに序文の下には次の記載がある。

Entered according to an Act of Mom Bu Sho, in the fifth year of Meiji,
By HOSOKAWA JANGERO,
In the office of Librarian of Mom Bu Sho at Tokeio.

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同上、序文

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同上、序文下

「文部省の法に従って明治5年に登録した」とあるが、これは当時、文部省が出版物の検閲と許可を与えていたことによる。この内閣文庫蔵本は、米国だけではなく日本でも出版の許可を得たものだった。ただし、この本の製本は支持体三本の抜き綴じで、接続部に寒冷紗を貼った、ボール表紙背クロス丸背のくるみ製本で、当時の北米教本類の典型的な製本様式である。居留地ではなく、サンフランシスコで製本されたものを輸入したのであろう。明治五年出版条例改正第十条では「凡ソ新タニ舶来ノ図書ヲ翻刻スル者ハ亦専売ノ利ヲ得セシム」とあり、チップマンがバンクロフトの出版物を日本で販売するに当たって「翻刻」ということにしたようだ。

 この本の後表紙には広告として

New Japan Primer No. One,
New Japan Pictorial Primer,
New Japan Second Reader,
New Japan Third Reader,
New Japan Spelling Book,
New Japan Universal History.

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同上、後表紙

という書名が記載されており、バンクロフトが日本人向けの教本をシリーズ化していたことがうかがえる。山下英一「グリフィスの福井生活 : 福井県文書館県史講座記録」(福井県文書館、2008)は、このうちのいくつかが実際に出版されていたことを影印とともに紹介している。先の『日本出版文化史』の「チツプメンは日本に斯の如き書籍の読者があるかと尋ねたので、細川氏は日本には英文を解する者が頗る多く、又英文の書籍の輸入を希望して居ると話したことがある」という記述とつながるものと言えよう。

 そして序文下にある "HOSOKAWA JANGERO" は細川潤次郎その人である。細川は帰国後、1872(明治5)年3月25日から文部省出仕となっていた。細川は先に出版条例の起草にも関わっていたので、出版物許可の役目にあったのだろうか。グリフィスの英語教本の一つ "The New Japan Primer Number One" の扉には出版元としてバンクロフトの名前しか記載されていないが、細川潤次郎の印があり、やはり細川が許可を与えていたことがわかる。

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The New Japan Primer Number One、1872、内閣文庫蔵(E004475)

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同上、扉。製本は三点平綴じの紙くるみ表紙。

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同上、扉。右下に「HOSOKAWAJUNGERO TOKIO/細川/東京」の丸印がある。

 改正されたばかりの出版条例の下、外国の教本を日本で輸入販売するに当たって、専売権を取得するためにわざわざ翻刻本として届け出るという方法が、細川からのアドバイスだったことは十分考えられる。扉にわざわざ細川の名を印刷するということも、当時の類例を見たことが無い。バンクロフトが主体となった日本向け教本出版に、独立したばかりのチップマンがいわば支店的に日本での販売を担当し、その際に既知の細川と相談したのではないか。先に述べたように細川はこの本が刊行された1872年9月15日に政府印刷機関設置を建言し、同月20日には印書局が設立される。同月下旬にはチップマン商会から印刷機の購入計画があったがこの時は実現していない。このような速やかな展開が場当たり的にできたとは考えられない。(この節つづく)

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