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書物の転形期:和本から洋装本へ

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このエッセイでは日本で洋装本が登場してから定着するまでの時期、すなわち十九世紀後半から二十世紀初頭までを対象として、書物の技術と当時の新聞広告や目録の記述などとを照らし合わせつつ…
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2022年3月の記事一覧

書物の転形期19 パターソンの洋式製本伝習4:印書局の北米コネクション1

細川潤次郎の渡米 五月二日 ○民部権少丞細川習米利幹地方ニ用ユル農具其他新奇ノ械器査検ノ事ヲ奉ハリ同国サンフランシスコノ展覧会ニ赴ク (『民部省日誌』明治四年辛未第四号、1871)  1871年4月23日、後に印書局の初代局長となる細川潤次郎は、米国の農具や機械類を調査するためにサンフランシスコの博覧会に出張を命ぜられた。細川は土佐藩出身で高島秋帆に学び、維新後は1869年から開成学校の権判事を務め、同年の新聞紙条例や出版条例の起草にたずさわった気鋭の官員だった。細川

書物の転形期18 パターソンの洋式製本伝習3:居留地の製本師3

横浜居留地の製本  横浜の居留地で確実に製本された本は、欧字新聞社が発行していた逐次刊行物や各種案内であろう。居留地の需要に即して編纂された出版物である。  "Japan Herald Directory"(Japan Herald Directory and Hong List) の1872年版(Japan Herald, 1872)は、外形が縦24.8㎝×横21.7㎝、厚さ0.6㎝、本体用紙は縦24.3㎝×横20.8㎝、厚さ0.4㎝の薄冊である。 Japan Hera

書物の転形期17 パターソンの洋式製本伝習2:居留地の製本師2

横浜の洋式製本師 伊藤泉美は横浜居留地の中国人印刷業についての論考の中で、開港当初の横浜では印刷業を身につけた者は引く手あまたであり、そうした状況の中で香港や上海で印刷技術を身につけた中国人が進出してきたと述べている。そしてその中には、英字新聞社等に雇われるのではなく、独立して店を構える者もいた。  伊藤論によれば、中国人の印刷業者は印刷・製本・文具の三種を兼業している。これは前回見た中国の居留地の状況と同様である。そして、その印刷業は製本から始まっているということも、中国