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【短編小説】左のうどん

 この世の誰しも、身の内に突如沸き上がる好奇心には勝てないものだ。
 僕は今、ふらっと立ち寄った見知らぬ場所で、まったく馴染みの無い食堂に入り、壁に掛かった古くさい板のメニューを眺めている。自分の知らない物ばかりが目に映る。何もかもが新鮮で、僕の心臓は嫌というほど高鳴っている。この高揚心こそ、長年続く放浪の日々に見出した快楽であり目的だ。
 見た事も聞いた事もないメニューばかりが並んでいる。豚のおろし。牛のかち割り。人参のわたうめ。南京のあし揚げ。しかし僕ほどの人間になると、これだけでは興味を引かれない。調理法を言い換えれば、何だって奇抜で面白いものになるのだから。そうやって語感で騙されて、いざ料理が到着したらごくごく普通の料理だった、その失望感は散々味わってきた。そんな僕に、奇をてらおうとする店主の小賢しい真似など通用しないのだ。
 僕は己の想像力を存分に発揮して、メニューの品定めをしていく。ははん、これはこういう調理法だろう。そしてこれは一種の比喩表現だな。こうして店主の計らいを暴いていくのも楽しみの一つだ。勿論僕は想像だけで終わらせない。ちゃんと全品を頼んで答え合わせをする。僕は止まらない好奇心に手を引かれるまま、知らないものを知っているものに変えていく。こうやって世の中を、世界を知っていく快感は、僕がこういう人間だから味わえるものなのだ。何時だって、僕は僕を思いきり楽しむ為に生きる道を選んできた。
 さて最後のメニューだ。探求者の僕の心臓は最高潮を迎えている。はたしてどんなメニューなのか。
『左のうどん』
 うどん、という事は分かる。しかし、修飾語が引っかかるな。
 左、という言葉にどんな意味があるのだろう。僕は左について今まで知ってきたもの達、すなわち言葉やイメージを頭の中でとっちらかしながら、どうにか僕の知っているものにしてみようと試みる。だがしかし、いくら頭を傾げても全く全貌が見えてこない。左という言葉がどうすれば食事に関連してくるのか。まさか、左手で食べなければいけないうどんだとか、そんなつまらない代物じゃないだろうな。それに利き手じゃない方で食べるのは苦手だ。以前やってみたから知っている。
 僕は少し気分を害したが、とりあえず注文をしようと店主を呼んだ。店主の男は薄暗い店の奥から返事をして、大きな体を揺らしてやってきた。あれ、こんな奴だったかな。僕の記憶が食い違う。確か爺さんだったはずだけど。違和感を抱えつつ、無言で待っている店主へ注文をした。大抵の店主はメニュー全品を頼むと驚くものだが、どうしてどうして、この男は涼しい顔で頷いた。
 出来たものからお持ちします。そう告げて、店主はのそりのそりと暗い厨房へ帰っていく。
 僕は改めて店内を見回してみる。見た事がない景色だ。
 勿論この店は僕の知らない店だけれど、正直言って食堂の内装なんてどこもあまり変わらない。椅子や机、貼っているポスターの種類とか、壁紙が綺麗か汚いかとか、それくらいの違いしかない。まあ僕ほどの人間であればそれら小さな差異も楽しめるけれど、今目に映るもの全て、この店に入った時とは明らかに変わっている。
 どうしてこの店の机と椅子は、冷たい石で出来ているのだろう。
 壁にかかっているアレは、まさか本物の人骨なのだろうか。
 そもそも、ドロドロと血のようなものが流れていく赤黒い壁なんて見た事もない。プロジェクターの演出だろうか。凄い趣味だなぁ。凄いなぁ、この店。
 お待ちどうさまです。左のうどんです。
 いつの間にか店主が脇に立っていた。白い湯気の立ち上る丼を僕の前に置いてくれる。はて、今のは何だ? 僕の耳は聞き慣れない言葉を捉えていた。好奇心が抑えられない。立ち上る湯気をふうっと吹き飛ばして、丼の中を覗き込む。
 丼いっぱいに盛られているのは、ぷるぷると揺れる乳白色の塊。ああこれは見た事があるぞ。タラの白子だったかな。以前港町で食べた事がある。何だ、そんなものか。僕はため息をついて、丼と共に置かれた匙を手に取る。店主がまたのそりのそりと去っていくのを感じながら、塊を掬って口に運んだ。
 僕の知らない味がした。  


※即興小説トレーニングでの未完作品の供養です。
お題【左のうどん】



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