ハッピーエンドとその先

ハッピーエンドかどうかは、物語をどこで終わらせるかによって決まる

Orson Welles(1915-1985)

高校1年生の時だったと思う。校長先生がどっかの映画監督の言葉を引用してこんなことを言っていた。

ある出来事をどう解釈するかは捉え方次第、的な話をしていたような気がする。もう6年も前のことだからどんな文脈で言っていたことなのかはもはや覚えていないけれど(あれから6年も経っていることを思うと恐ろしいものを感じる…)、この言葉は僕の中で引っかかり続けた。




恋人に振られてからというもの、この言葉を思い出すことが多くなった。


彼女との出来事を「恋人との物語」と捉えたとすれば、僕にとっては振られて終わってしまった恋なのだからハッピーエンドということはないだろう。
(それともこの先、彼女とまた何かがあるというのだろうか。)

「恋人と付き合うまでの物語」として切り取ったとしたら、それは僕にとってハッピーエンドな物語だ。なんせ出会ってから2年半も片思いした末に付き合うことができたのだから。それに、そこまでの出来事を「物語」としても十分に色々なことがあったと思う。

こんなことを考えていると、「付き合うまでは楽しいが…」と言っている人たちの気持ちがなんとなくわかるような気がする。あるいは「結婚するまでは…」ということだろうか。
いずれにしても、ある期待される物語の第一歩を踏み出せた、ということ自体が幸せな物語の終わりとなり得てしまうのだ。


最近はそんなことを考えることが多くなった。





高校時代に触れた言葉で僕の中に引っかかり続けているものは他にもある。

現代文の授業で扱われた評論で特に記憶に残っているものに、内田樹の『物語るという欲望』というものがあった。

この評論は映画の話から始まる。映画というのは観客の解釈ありきで存在する。映画の中には文脈が存在しないもの、無意味なもの存在し、観客がそれらを「解釈したい」となるからこそ、そこに意味が生まれる、といったことが書かれている。
その後、無意味なもの、よくわからないものが、意味を生み出すということが説明され、「物語」が生じる過程が述べられる。

そして、この評論の最終段落は次のような文章で締め括られている。

何か原因が「あって」、物語が動き出すのではありません。何かがうまくゆかないとき、何かが「ない」ときにだけ、物語は語られ始めるのです。

内田樹『物語るという欲望』


この評論を読んだとき、僕がどんなことを思ったのかは正直覚えていない。
けれどもなぜか、この評論の内容はよく覚えている。


そこにあった言葉もまた、失恋した後によく思い出すようになった。

僕がこうしてnoteを書いているのは失恋した後であり、しばらく前にnoteを書いていたのも前の彼女を振って別れたときなのであって、僕自身こうして "何かがうまくゆかないとき、何かが「ない」ときにだけ、物語を語っている" という自覚がある。



ハッピーエンドとして "終わらせた" 物語に何らかの続きがあるように、ハッピーエンドでない形で "終わってしまった" 物語にもまた何らかの続きを見出すことができる。


恋人との物語は終わってしまったけれど、僕の、そして彼女の物語はこれからも続いていくだろう。




僕の物語は今まさに動き始めたのかもしれない。


本を読んだり、舞台や演劇の鑑賞をしたり、ちょっとした旅行をしたりして、刺激を受けていきたいです。