私が『私』という人間でいることはどれほど重要なことなのか。
アイデンティティの話です。
思春期から青年期へと移り、「大人」と呼ばれる存在になる過程で多くの人は「何者か」になることを要求されます。
私も例外ではありません。現在進行形で要求されています。
特に、これから就職を、と考える時には否応なく、私は今後「何者か」にならなければいけないのか、ということを考えてしまいます。
でも、何者かになる、というのは意外な難しさがあります。
それは他人が知っている「何者か」でなければいけないということです。
今でこそ、YouTuberという職業が職業として認知されていると思いますが、10年前はそうではなかったと思います。子供がYouTuberになりたいと言っても、それを「何者かになる」時の「何者か」として認めてくれる大人は少なかったのではないでしょうか。
私の場合はどうでしょう。
親はおそらく、どこか大企業に私が就職することを望んでいるでしょう。
就職して社会人になるということ以外の「何者か」は、私の親にとっては「何者でもない」のと同じなのです。
ただ、私はいわゆる普通の職業というものに就く自信がありません。
就く自信というよりかはそれを続けていく自信という方が正しいかもしれませんが、たぶん、親や周りの大人たちが期待しているような、よく知っているような「何者か」にはなりようがないのです。
これは苦しいことです。そもそも「何者か」にならなくてはいけないという時点で苦しいのに、その「何者か」というのも親が知っているような「何者か」でなければ、私が「何者か」になったということを認めてはくれないのです。
さて、冒頭の問い、「私が『私』という人間であることはどれほど重要なのか」ということを考えていきたいと思います。
私がいわゆる就職をして生活していくのは私が『私』であることを捨てるようなものだと思っています。
私は集団生活に大きな課題を感じていました。一言でいうとみんな同じことをしなくてはいけないことに耐えられなかったのです。
その典型として集団授業を行う塾というものがあると思いますが、私は学習塾に通ったことがありません。親から勧められたこともありますが、ずっと拒絶し続けてきました。その背景にはなんで言われたことを言われた通りにやらなくちゃいけないんだ、という思いがありました。
自由が良かったのです。
でも一方で学校の中ではいわゆる「良い子」として過ごしてきました。
その背景には大人に従わなかった時にどうなるかわからないという「怖さ」があったのだと思います。基本的に人は怖いです。
だからこそ、学校の中では「良い子」でいることで安全を確保しながら過ごし、その代償としてあまり自由に過ごしていたという思いではありませんでした。特に小学校や中学校は今から思うと不自由な生活だったなと思います。
そういった過ごし方をしていたから、何か枠組みの中に収まってしまった時に、その枠組みの中でなお自由に生きようというというのが私には足りていなかったのだとも思います。塾の拒絶は、塾に通ってその中で自由を獲得できるとは思わなかったからです。
ここで就職というものを考えると、就職は自分をある会社の中に入れて枠にはめる行為としか思えない節があります。
それは、かつての自分が学校生活の中でその枠組みの中でしか生きられないことの苦しさを味わったことから生まれている拒絶感へとつながっていきます。
ある種、学校という枠の中でも自由に生きていた人たちを私は羨ましく思います。どうしてもそこに「枠」があるとそれを意識してしまうのです。
一方で枠がないと大変というのもよくわかっています。だから単に切り捨てることはできないのですが、でも枠が必要だったらそれを自分で作ったり外したりできる環境に自分は身を置きたいと考えています。
「私が『私』という人間であることはどれほど重要なのか」という問いの「私が『私』という人間であること」とは自分に科されている枠組みは自分で科したいということです。どんな場所でも『私』という人間であり続けられるほど、私は強くはないのです。
では後半、それは一体どれほど重要なことなのでしょうか。
大学4年生、いよいよ授業がほぼなくなって研究室での生活になりました。けれども、私の研究室は実験をするわけでもなければ、コアタイムがあるわけでもない、かなり自由な、逆にいえば個々人に進捗を求められる、そんな研究室でした。
そこで自由を手に入れた私は堕落しました。
今までの生活でこれほど自由に時間を使えたことはなかったので好きなように過ごしていたら、生活リズムが崩壊し、メンタルを崩しました。
自由を追い求めた自分が自由にたどり着いた末路がこれでした。
だから、もしかしたら私は『私』という人間でいようとしない方が健康的でいわゆる幸せな生活を送れるかもしれないです。
けれども一度手に入れた自由を手放すことはなかなかできません。そして最近はこの自由の中でも自分の生活を取り戻しつつあります。
自分で枠組みを設定するということを覚えてきたのです。
私が『私』という人間であり続けようとしても、私が『私』という人間を捨てても、案外そんなに変わらないかもしれません。
前者は自分の生活を失う可能性を秘めていて、後者は自分が本当にやりたいことをできないという悶々とした気持ちを抱き続けることになるでしょう。
でも、これを考えた時に、私は自分の生活を失う可能性があったとしても自由に生きたいと思いました。
私は『私』であって「何者」にもなりたくないのです。他者にその名付けを与えたくないです。
さて、そんなことを思っている私、10年後は「何者」でありどんな生活をしているのか、今から楽しみです。
卒論執筆に勤しむ、大雪の中の研究室にて。
本を読んだり、舞台や演劇の鑑賞をしたり、ちょっとした旅行をしたりして、刺激を受けていきたいです。