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「あわよくば、見つめ合いたい」

寝そべる猫をじーっと見ていたら、猫もくりくりの目をさらに大きく開き、じーっと見返してきた。
そのままお互いが、じーっと見つめ合うひととき。

こころのなかで、「アイラインがクレオパトラみたい」とか「おでこの縞はよくみると灰色と茶色のグラデーションだったのか」等々、頭の先から爪の先まで観察し、愛でる。
猫もまんざらではないようで、ますます射抜くような透明な瞳でわたしを見つめる。
次第に、じんわりと込み上げるものがあって、「あぁまさにこれがエネルギーの循環だ」と、思った。
もしこの視線の交わりが可視化できたならば、きっと王蟲の触手に包まれるナウシカよろしく、黄金色の糸がトーラス状に猫とわたしを覆っているのだろうか。

おもむろに、真横にいた長女は、やけにでかいヘッドフォンをしたまま言った。
「猫相手だと気兼ねなく視線を注げるから最高だよね!」
おおおっ。こちらのこころを見透かしたような物言いは、さすが我が腹から出てきただけある。
「そうなんだよねー。動物とか赤ちゃんにはそれができるけど、にんげん相手には寝顔以外なかなか難しいからね」と返した。

インドでは、肌の色が違う我々は、現地の方に熱い視線を注がれることもあるが、それでもやはり目が合うと、しれーっと逸らされる。
一方で沖縄にいるアメリカ人は、目が合うとたいていニコッといたってフレンドリーだが、仮にそのままこちらがじーっと凝視し続けたら、それなりにヤバいやつだと警戒されるだろう。

ただし、「目が合う」ということは、たとえ一瞬でも「意識の交換」、「意識の交差」なのだから。

社会学者の宮台真司さんは、「愛し合うときにはお互いに見つめ合うこと(むしろ目を離さずに)がめちゃめちゃ大切なんです」と力説している。
「あなたが見ているからわたしが存在する。わたしが見ているからあなたが存在する」
まるでフランス映画のタイトルのようだが、「ロマンティック〜♡」なんて言ってられない、それはまるっきりの事実である。

超有名な物理の実験、「二重スリット実験」により、
https://www.youtube.com/watch?v=pOfbVga7P10
ゆらゆらうごめいている波のようなもの(波動)が、「見る」という観察者の行為によって、ゆらゆらがぴたりと固定され物質として立ち現れる、ということが証明されている。


見た途端に(意識を向けた瞬間に)それは各固有の周波数に従って、丸椅子になったり、キッチンクロスになったり、竹のかごになったりする。

「見る」、という行為。

一方で、夢。目を閉じて見る夢は、自分の意識の領域を超える。

夢といえば、小さい頃からずっとやっている遊びがある。
寝る間際の、ささやかな個人的なたのしみ。
それは、知らない人の顔が連続して、何十人、何百人と、寝落ちするまでポンポン勝手に浮かび、まるでモンタージュ写真を自動再生しているみたいな感じ。

これらの人々は、今まで「見た」だけで意識に留めていないような、例えばテレビの画面の中や、雑誌の中、街中ですれ違った人も含めて、全員の顔が潜在意識にはインプットされているんじゃないか、と。
いわば、「顔面データバンク」。
それがやや眠い状態(脳がシータ波)になると、「顔面データバンク」に無意識にアクセスしておこる現象なのではないか、と踏んでいる。

妹も、同じくこの遊びができるので、それこそ幼い頃は「今、何が見えてる?」と言い合いっこした思い出がある。たまに、ものすごい怖い形相の人たちばかりが続くこともあって、そのときはいったん目を開けてリセットする。

まどろみの時間、意識と無意識のあいだ。
わたしの目が黒い限り、「顔面データバンク」は増え続けるのだと思うと、うすら怖い気もするのだが。









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