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「ここにあるものいるものぜんぶ同志」

野良の白猫は、今日も玄関先でわたしたちを出待ちしている。
一刻も早く「この扉を開けろ」と、細くて鋭利な乳白色の爪で、早朝5時からドアをカリカリやっている。
カリカリ、カリカリ。
その音が、正直ちょっと怖いのである。
お願いだから、そんなにつよく求めないで。
追いかけられると逃げたくなり、逃げられると追いかけたくなる、ってか。
なんだかアーバンな駆け引きみたいだけど、相手は徹頭徹尾、猫である。

あー、そうだったそうだった。あの頃、長男がまだうんと小さかった頃も同じような心境になったっけ。
少しでもわたしの姿が見えないと、頭を振りかぶって血眼で探す。あげく、トイレにまで詰め寄った子はわたしを捉え、「もう逃さんぞ」とばかりにガシッと足にしがみつく。
まぁ、その年端の子どもの行動だったら「ふつう」であろう。
でも、こんなに頼られちゃって且つ信用されちゃって、そもそもわたしはそれにそぐう存在なのだろうか?って自問自答。
なので一刻も早く、自分のバージョンアップを迫られているような気持ち。
ようやくそんな状況も、「モテ期なんだなー」と一蹴できるようになったのは、単純に麻痺したからだろう。

さて、白猫の立場は未だ確定しておらず、すなわち名付けもされていない。
無邪気な末っ子は、「飼ってあげようよー」と上目遣いで言うが、4匹のオス猫がピリピリ厳戒態勢をとっているので、迂闊に気を緩めることはできない。
中でもいちばん神経質な「テリトリー」(茶トラ)は、先日、布団にド派手なマーキングを遂行した(そもそもそんな名前をつけたからかもだけど)。
なので今日はその臭気を殲滅するべく、3種類の「消臭が期待される」スプレー片手に長女は孤軍奮闘している。
実にご苦労なことである。

にしても、くだんの白猫の距離の詰めかたは異常なのである。
ある日、何の前触れもなく路地で出会ったのがこの猫とのご縁であるが、以来、目が届く範囲にずーっと居る。出掛けて行く気配すらない。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、膝に飛び乗っては顔をぐいぐい埋めてくる。
もともとの気質もあるだろうけど、これまで警戒するような出来事に一度も遭ったことがないのだろうか?
そんな興味深い無垢さに感心しながら、我が家の猫がいないのを左右確認しては、のち、白猫をわしゃわしゃと過不足ないように可愛がる。
わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。
「うちの子」として招き入れられない現状の、せめてもの罪滅ぼし。
これからも、怖くて寂しい思いをしないように。
どうやら、子宮あたりから湧き上がる想いは枯渇を知らないようだし。

夢を見た。正確には夢と現実のはざまの、まどろみのとき。

わたしはいつも使っているタオルケットを手繰り寄せ、それで背中をふわりと包んだ。
そのとき、そのタオルケットがものすごく可愛く思えて、「いい子に育っているなー」と嬉しくなる夢だった。
目が覚めて、そっかーモノも育つんだ、と。
とくにタオルケットのようなものは、まいにち使うし、くたくたになったパイル地はたまらなく肌触りがよい仕上がり。
よく、器やカゴなどの経年変化を「育つ」と形容するけど、それは比喩じゃなくて、ほんとうのことだ。

一夜にしてそのことを知った朝は、目に入る「モノ」がもはや同志にしか思えない。








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