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「終わり」に向き合うことの「はじまり」

 父の「終わり」に向き合うことが、「はじまり」でした。仕事の中で、医療従事者、ケアギバー、いろんな方に出会います。その中で、「死」は、いつか、誰にでも訪れるものである、という当たり前のことが、なんだか遠ざけられていることを感じていました。

 大学時代から考えると30年以上、私はこの世界にいます。どちらかといえば、先端的な、先進的な医療に関することを扱うことがとても多く、人工臓器にはじまり、再生医療、創薬、ロボット、人工知能と、歩いていきました。しかし、人はなぜ治るのか、治ったと感じるのか、健康の定義とは何か、を考えてみると、最先端で凌ぎを削るだけでは、人は幸せではないのかもしれないと思うことが少なくありませんでした。どこか、心の持ちようについては、軽く考えられているような気がし、治癒、軽快という用語だけではない、「何か」に関心を持ち始めました。少し前まで、医療は対物、物による手法が多かったように感じましたが、ロボットや人工知能の発達の中で、人間を理解することへ関心が向かいます。ようやく、行動変容や認知に、社会的に目が向けられ、医療の主体も患者さん自身であると認識が変わってきたと思います。

 私自身が子育てをし、親のサポートをし、と人生のステージの変化の中にいると、先端的な医療を受けることこそが幸せという価値観は何か違うな、と感じることも多くなりました。人は皆同じではありません。体質も性格はもちろん、暮らしぶりも違います。昔の医療は、一律に同じことを提供することを目指していました。それは間違ってはいないと思います。比較的リーズナブルな治療費になるなどのメリットはあります。その一方で、高度な医療を長い時間うけさせることが親孝行であるという考えも少なくありませんでした。果たして、それはその人らしさを尊重しているといえるのでしょうか。そんな疑問も仕事の中で医療の計画に関わっていた頃に感じました。

 だんだんと私の親も歳を重ねていき、平均寿命を超える年齢に達しました。私の家には大切な約束事が伝えられています。「生きている人が大切である」という考え方です。故人を粗末にすることはありませんが、生きている人の生活をまず大切にします。そして、平均寿命を越えれば、そこは、おまけの人生であると考えるのです。そこを越えると、どう生きていくかを考え直すことも約束の中にあります。家族も同様に考えを持つようになります。これは「アドバンス ケア プランニング」という名前のものとよく似ていますね。いろんな方の終末期に間接的に関わっていくと、本当にそれでよかったのかな?と迷う人が多いことにも気づきました。同居して上げ膳据え膳することが、その人らしさを奪ってしまったのではないかと感じることもありました。欧米の終末期の様子を聞いているとますます考えさせられました。高齢者を大切にするとはどういう意味なのか、老親を目の前にして考え始めたのが、「はじまり」です。

<写真は、思いはじめの空。父が何度目かの脳梗塞の入院の折、そろそろと感じた時期の撮影です。父は海が好きで海の近くに家を買い、釣り三昧。そんな暮らしをしていましたが、寄る年波に勝てず、だんだんと健康問題が増えていきました。病院の帰りに見上げた空。空の下は、父が大好きだった海岸。良い釣り場です。>

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