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情報の民主化によって、「着てたらオシャレなブランド」はなくなる

2019/9/23

基本的になんで“ファッションをやる”のかというのを俺は差別化なり個性出しと主張してはばからない。

差別化や個性を出したいということを、「他人の目を意識したパッシブな動機」と言って嘲る人や譏る人やマウンティングする人がいるが、服が持つ機能だったり造形美だったりブランドが持つストーリーに興味関心を向け出すのは服を好きになって少々経験を積んでからの段階になる。

まあ中には、「たまたま寄った古書店で手に取った古いVOGUEに載っていたフセイン・チャラヤンのコレクションに衝撃を受けてファッションに魅せられた」という酔狂な人もいるだろう。けど自分はそんなんは後にパリ・ファッションウィークに出展するようなブランドを立ち上げる天才か、「叔母が勝手に履歴書を送って」とか言ってジャニーズ入所の経緯を語る類の嘘つきだと思っている。偏見。


そういう前提で、すでに何年もファッションを楽しんできた人にとっては、情報が均一化し過ぎていて前ほど服やブランドを楽しむインセンティブが減ったよなあと考えている今日この頃。

どういう経緯でそんなことを思うようになったか、今日はそこのところを掘り下げてみようか。

情報民主化前夜におけるファッション情報収集の手段

ちょっと表現に気をつけなければならないが、昔2ちゃんねるなどを中心に「脱オタ」と呼ばれていた人たちがいた。

御察しの通り、脱オタクの略称である。意味的にはそのまま、オタクを脱した、あるいはオタクから脱しようとしている人を指して使われる呼称で、ある種の蔑称である。

現在では「オタク」という言葉の定義やその捉えられ方が文脈や見方によってかなり意味合いが異なるので、「脱オタク」のニュアンスを先にきちんと押さえたいという人はwikipediaをどうぞ→脱オタク


ウィキ内でも記述があるが、脱オタは必ずしも特定の分野(例えばアニメや鉄道)に詳しい人に使われるのではなく、2ちゃんの特にファッション板では、ファッションに疎い人やダサい格好をしている人を指して脱オタと呼称する傾向が見られた。

ファッション板における脱オタの基準もかなりまちまちで、ある人はハイブランド以外を身につけていたら脱オタと言い、ある人は全身セレオリの人に向かって脱オタと言って罵っていた。今思えば本当に暴論がまかり通る酷いネットコミュニティだったと思う。俺がよくファッション板をのぞいていたのは20歳前後だったが、ある程度自分の価値観が形成された後に遠巻きに眺めていたぐらいで良かった。


ただ、極端な意見が散見されながらも、ある程度合意が形成されたレベルの考え方も生まれていたように思う。

例えば、「ロールアップした裾の裏地がチェックになっている7部丈のベージュチノパン」とか、「ざっくり開いた胸元を、変な合皮の紐で編み上げた英字プリントのTシャツ」を着ている奴は確実にダサくてオタク。みたいな認識は当時のファッション板住人の共通認識だったはずだ。特に後者の英字プリントTは、秀逸すぎるイメージの言語化ゆえ、一種伝説的に語られていた。


そして面白いのが、そんな脱オタに向けて「脱オタク向けブランド」や「脱オタクがいかにしてオシャレになるかのハウツー」や「脱オタク各段階における買い物すべき店やファッションビル」など、正しい道のりで脱オタクできるように指南するスレッドがファッション板内にたくさんあったのである。

そのため、当の脱オタは自分の脱オタ段階に合わせてブランドや店をチョイスすることができ、目指すべきオシャレピーポーになるため、「何がダサくて何がダサくないか」、「何が普通よりちょっと攻めてるか」、「一見難しいが着こなすことができれば上級者」といったことを一歩一歩学習することができた。


実際にファッション板のそうした構造を利用して脱オタからオシャレピーポーに開花できた人がいたのかは残念ながら知らないが、そうしたある種の育成システムのようなものが機能することによって、ファッションを楽しむ人種がいくつかのレイヤーに棲み分けられていた。

このシステムは、ほぼ間違いなく有志というかただのお節介な2ちゃんねらーによって維持されていた、プレイヤーに無理を強要しないある意味優しい機能だったように思う。


これが2008年前後のこと。最近Yahoo!に身売りしたZOZOタウンが知られるようになったのもこの時期で、使うかどうかは別として、ゾゾを知っているのはまだある程度感度の高い層が中心だった。


先端ファションへのリーチが格段に簡単になった弊害

脱オタの奮闘から約10年。

ファッションとネットを巡る状況は大きく変化した。


ファッション情報の収集は、ほとんどネットに比重が移り、なおかつインスタやユーチューブが主な情報源というユーザーが中心となった。

インスタのインターフェースのおかげでより手数をかけずに今かっこいいとされるブランドや服にリーチ可能になり、購入への導線も整備されている上、メルカリで検索すれば大抵の有名ブランドアイテムは手に入るようになった。


10年前も、理論上はネットのみで情報収集から購入まで完結させることは可能ではあったものの、サービス提供側のネット対応の充実度がまちまちだったので、依然として上述のファッション板や紙の雑誌が必要だった。


現在では、より多くの人に服やブランドに関する情報が拡散しやすくなったが、それによって顕在化する問題もある。

情報だけを先行して大量に得られるため、情報の使い方や順番がわからないのである。


俺はこんな記事を書いているぐらいだから、街ゆく人のファッションをよく観察しているのだが、そこで感じるのが、「情報だけが先行したチグハグな格好をしている奴が異常に多い」ということだ。


この間見かけた奴は、

・トップス:ヨレヨレの白Tee

・ボトムス:adidas × YEEZY calabasas のスウェットパンツ

・靴:アベイルで売ってそうな、無駄にヴィンテージ加工を施した上、アッパーにトリコロールの細いベルトがついた革靴

・カバン:アベイルで売ってそうな、ハンドルがガチャベルトのようになってハトメで長さを調節できるトートバック(ベルトが好きなのか?)

・iPhoneケース:Y-3


思わず、どういうことやねん! と叫びそうになった。

カラバサススウェットを穿く奴がアベイルで靴買っとんのかい! と。北海道出身なのに関西弁で。


他にも、垢抜けない格好の奴が履いてるコンバースの踵を見たらヒールタブが黒でCT70だったり、そんな奴を、都内で生活していると割に頻繁に見かけるのである。


この違和感をエンタメ業界に例えるなら、公式ツイッターアカウントのフォロワーが120人の地下アイドルグループに、アリアナ・グランデが加入するみたいなことである。しかもネタ企画とかでなく双方マジな顔して。

俺が好きなサッカーで例えると、三鷹リーグ(J1から数えて9部リーグ相当)の社会人クラブが大真面目にポール・ポグバの獲得を試みるみたいなことだ。※三鷹リーグでも全国経験者などがプレーしており、未経験者からすればかなりのレベルです


なぜこういうことが起きるのかというと、それは偏に、「よし、オシャレしよう!」と決意した瞬間に、YEEZYやCT70にリーチできる環境が整っているからに他ならない。

で、今までオシャレに気を使ってなかった人たちは、取捨選択できない場合が多いため、その中の見栄っ張りで急に金かけようとする奴が、上述のようなチグハグな格好をするのだろう。


そう考えると、10年前にファッション板に立っていた数々の脱オタ指南スレッドは、結構優良な情報源だったのではないかと感じたりする。

避けるべきアイテムはあるが、身につければオシャレになれるアイテムはなくなった

これまで書いてきて気づいたことだが、

「このアイテムを身につけていればオシャレ」という価値観は消え去り、「このアイテムを身につけていたらダサい」という価値観が残ると思われる。


情報が民主化したことで、どんなに高価でレアなアイテムもかつて脱オタと呼ばれていた人種に侵されるため、アイテム単体に自分のオシャレさを担保させることはできなくなった。(実はその担保させる行為は元々オシャレではなかったのだが、その真理が顕在化した)

つまり、オシャレなアイテムのパワーは身に着ける人や合わせるコーデ次第で効力が上下することがわかった。

そして、確実にオシャレではないアイテムの負のパワーはプラスにすることができない。例えば上述してきたような、チノパンや紐で編み上げたプリントTやトリコロールベルトのついた革靴は、どう使ってもダサい。


これらを念頭に置いて、服選びをすれば、少なくともブランド頼みのチグハグな格好をしてしまう可能性は大幅に減らすことができるだろう。

しかしこれらのことを考えると、度々ツイッターやユーチューブで叩かれているげんじ氏などのエントリーユーザー向けのファッションインフルエンサーというのは、結構重要な役割を果たしているのだなと改めて感じるのである。


このロクでもなくやはりロクでもない世界の目を瞑ってはいけない部分を目を見開いて見た結果を記してゆきます。