私鉄沿線

東京を東から西に貫く中央・総武線。
俺は住んでいるのが阿佐ヶ谷という、中央線の駅があるところのため、通勤や私情の外出では、大体中央線に乗るところからスタートする。

少し前は西武新宿線という路線沿いに住んでいた。西武新宿線は、新宿の、ラブホとか風俗店が立ち並ぶ歌舞伎町のほど近くにある西武新宿駅を起点に、中央線の少し北を並走し、最終的には所沢とかを通って埼玉の本川越という駅に行き着く。

上京してからは一回しか引越ししていないため、俺が主に使っていたのは中央線と西武新宿線の2路線ということになる。
まああとは知り人が住んでいたりして頻繁に利用していた各路線には、少し思い出もある。
例えば、何年か前まで頻繁にお互いの家を行き来していた知り人が小田急線沿線に住んでいたのだが、その知り人と二人で新宿で小田急に乗り、町田にある知り人宅に向かっていた時に起こった事は今でも時折思い出すのである。


俺はその頃、自分はテレビの笑い芸人のように他人を笑わせることを言うのが得意なのではないか、とどういうわけか錯覚していたこともあり、その知り人と会う前の数日間にあった出来事を構成・脚色の上、電車に乗って数分、作り上げた話を話し始めた。

車内は座席が全て埋まっており、他に立っている乗客が車内の3割程度を埋めていると言った状況。我々は座る事が叶わず吊革に掴まり、互いの手はつないで立っていたが、乗客はそれほど多くなかったこともあり、特に周りの人々が近くにいて不快、と言う感じはなかった。

俺の話は終盤に差し掛かり、いざ、直前の状況を覆す意外な展開となった出来事を言おうとした瞬間、確実に俺に向かって、俺の耳目掛けて、「鼻が高えのが自慢かよ!!」という怒声が響き、俺は頭が真っ白になった。
銘々が好きに話したりスマートフォンを眺めたりして穏やかな平日午後2時の小田急線が、水を打ったように静まりかえった。

真っ白の頭で振り返ると、その先には、漁業組合の人が被っているようなネイビーの、金色の刺繍とごく細く短いロープがブリムの上にあしらってあるキャップを被った小柄な老人がおり、腰をこごめ、肩を前に突き出し、両の腕をぶら下げて、顔をこちらに向けて猿ように立っていた。俺と老人は眼が合っていたが、その眼が鋭かったのか、精気を失っていたのか、どのような眼の感じだったか覚えていないのに、印象深かい曖昧な眼だった。

俺は決して鼻が高くない。だが、正直なところ顔面の造作というのは決して酷い方ではないと信じているところはある。とはいえ鼻に関して言うと、結構自信がないと言うか、「鼻さえ高かったら相当いけるんちゃう?」とか思ったことはよくあった。今は30過ぎて鼻だけでなく肌質の衰え、体型の崩れ、剃っても短時間で生えてくるようになってしまった髭など、悩みは数えきれん。くそ。

それから、俺は電車内で知り人に鼻の話は一切していない。確かその時は、自転車通行禁止の道を自転車で通ったらポリスがいて注意を受けていたところ、そのポリスの後ろから別のポリスが自転車に乗って通りがかった。みたいな話をしていたと思う。

そう言うわけで俺が、「鼻が高えのが自慢かよ!!」と言われる筋合いは一切なかった。だが、その老人は人のまばらな電車内で明らかに俺に向かって怒鳴っていた。
それがため、怒声が聞こえ、しかもそれが鼻が高いのを自慢している奴がいるとの具体的な指摘であったため(そんな奴はどこにもいないのだが)、車内の人々は「(ん?鼻が高い奴が自慢している?どれどれ)」となって、皆一様に俺の顔を覗き込むのである。
なんたる羞恥。なんたる陵辱。俺は鼻は高くないのである。そんな奴が鼻の高さを自慢していると思われたら(そんな奴はどこにもいないのだが)、車内の人々の失笑を買うのは俺ではないか!

恥辱にまみれ、猿のような漁協組合の人のような老人に睨まれ、俺は黙って老人を見つめ返すことしかできなかった。


しかし、直後に電車は目的地の町田駅に到着。俺は救いを得たと感じ、しかし同時に老人に怒鳴りつけられている鼻を自慢している人と車内で認識されているであろう事実にも配慮し、知り人の方を振り返り、「いや、オチ忘れたわ!」とか意味不明なことを述べつつ、怒鳴られたことを一笑に付している感じを殊更に強調し、知り人の手を引いて降車した。

その後、知り人はその事実をいかにも面白い事が起こった、といった様子で笑っておった。
我々は古着店、カフェー、本屋などを回って時間を消費。知り人宅に着いて、牛すじカレーに舌鼓を打ち、互いにシャワーを浴み、男女のことを行うが、俺の下腹部が煩悩を吐き出すに至るまで、俺はついぞ、怒鳴った老人の、真実を鋭く射抜くようでもあり、虚無的なようでもある、曖昧な眼を忘れる事ができなかった。

このロクでもなくやはりロクでもない世界の目を瞑ってはいけない部分を目を見開いて見た結果を記してゆきます。