拝啓ミネルちゃん、どこかで元気にやってますか?
ここ最近、てっきり街中でミネルちゃんを見ることがなくなった。
ミネルちゃんとは、ぼくが物心つく前から通っていた英会話教室のマスコットキャラクター。
笑顔でグリコポーズをした草冠を被った金髪の少女である。
これまで街でミネルちゃんを見かけるたび、胸が苦しくなっていた。
なぜなら、知恵をつかさどる神に見守れて、英語を学んでいた時間はいつも辛かったからだ。
その英会話教室には、たしか4歳くらいから15歳まで通っていた。
なのに、一切英語が話せることはなかったし、中学で始まった英語の授業でもせいぜい中の上くらいだった。
結局、ミネルちゃんに別れを告げてからも、大学を卒業するまで20年近く英語を勉強してきて、ついには話せることはなかった。
考えられる原因は、英語が好きではなかったこと。
その理由は、おそらくイヤイヤ通っていた英会話教室だった。
もう嫌で仕方がなかった。
月曜日の夕方にある英会話教室が本気で嫌で、小学校低学年から極度のサザエさん症候群だった。
魚をくわえたドラ猫になりたいと願うばかりだった。
人見知りだったぼくにとって、別地区の小学校からも生徒が集まるその教室が面白くない。
くわえて、そのほとんどが女子だった。思春期真っ只中のぼくにとって、その状況は不本意でしかなかった。
ただ、ひとりだけ男子がいた時期があった。
ところがこの少年がメシアになることはなかった。
ぼくはこの少年を恐れていた。
なぜなら、銀色のドラゴンが描かれた真っ黒なロンTをきた、長髪ポニーテールガリガリ男だったからだ。
ドラゴンポニテガリ細男は外見通り、やんちゃだった。
彼の小学ではアキレス腱を引きちぎる「ET」という技が流行っており、おれも何人かのアキレス腱をちぎってやったと豪語するのだ。おそろしい。
もうほんとうに英語教室へ行くのが嫌だった。
両親には常々やめたいと言っていたが、ダメの一点ばりだった。
私たちは英語が話せないから、あなたには話せるようになって欲しいというのが、言い分だった。
有り難い。でも、嫌なものは嫌だ。とにかく毎週月曜日が憂鬱で仕方がなかった。
とはいえ、学校での英語の成績が上がることも、英語が話せるようになることもなかった。
そして、三十路手前にして、ついに英語が話せるようになった。
話せるといっても、コミュニケーションが取れる程度であるが。
これまで英語で話かけられようもんなら、キョどってドモルしかできなかった。それが、ふつうに会話ができるようになったのだ。
結局、海外に住んで必要に迫られない限り話せるようにならないのだろう。
もちろん、日本にいながらにして話せるようになる人もいる。そういう人はよっぽど英語が好きだったり夢があったりと、とてつもない熱意がある人なのだ。
どんなに幼い頃から英会話教室に通おうと、イヤイヤでは使えるようにはならないのだ。
その意味でも、協力隊に入って英語圏のルワンダに来れて本当によかったと思う。
両親が十数年間払い続きてくれた月謝や想いが、ようやく成仏された。
もしかしたら、4歳から通い続けた英語教室のおかげなのかもしれない。
否、そう思うことにしよう。
英語を習わせてくれてありがとう、お父さんお母さん。
温かく見守ってくれてありがとう、ミネルちゃん。
おかげでルワンダで元気にやっていけています。
ミネルちゃん、またどこかで。
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