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「覚悟のシェア」双葉町再生の架け橋になる(前編)

 KIBITAKI プロジェクトでは双葉町における様々なプロジェクトを通じた町の再出発について、さまざまなゲストをお招きしてお話を伺います。

 第8回のゲストは「一般社団法人双葉郡地域観光研究協会(通称:F-ATRAs)」の代表理事、山根辰洋(やまねたつひろ)さんです。観光を通じた地域再生を目指し、双葉町のツアー企画や留学生との交流会を開催するなど双葉町との交流人口を増やす活動や、地域の生業づくりに意欲的に取り組んでおられます。また、令和3年に双葉町議会議員になられ、双葉町の古き良き伝統芸能・文化継承しながら、未来にむけたより良い双葉町のまちづくりに日夜奮闘されています。

 今回の対談では、ゲストの山根さんと一緒に、双葉町の過去、現在、未来についてのビジョンを共有しました。

ゲスト プロフィール
 山根辰洋 やまね たつひろ
一般社団法人双葉郡地域観光研究協会(通称:F-ATRAs)」 代表理事
東京都八王子市生まれ 
福島県双葉町にて観光を通じた地域再生を目指す会社を運営する一方で
令和3年双葉町議会議員となる。
町民に寄り添いながら、エネルギッシュな行動力で町の再生を目指す。

KIBITAKIメンバー プロフィール
 高崎丈 たかさき じょう
元JOE’S MAN 2号・キッチンたかさき オーナー(新規店舗開店準備中)
日本酒のお燗を広める活動を展開中
株式会社タカサキ喜画を双葉町に設立

 小祝誉士夫 こいわい よしお
株式会社TNC 代表取締役/プロデューサー
海外70ヵ国で展開するライフスタイル・リサーチャーを運営し、
国内外での事業クリエイティブ開発をおこなう
 
島野賢哉 しまの けんや
株式会社サムライジンガ 代表取締役/プロデューサー
ブラジル、台湾における芸術文化を中心としたプロジェクトに携わる
クリエイティブサウンドスペース 'ZIRIGUIDUM'(ジリギドゥン)創設者

本日のゲスト山根辰洋さんとKIBITAKIメンバー

島野:今回対談させていただくのは山根辰洋さんです。遠方よりお越しいただき、誠にありがとうございます。

高崎:山根さんお久しぶりです。今日はありがとうございます。お話しできるのを楽しみにしていました。

山根:高崎さんお久しぶりです。お会いできて嬉しいです。本日はよろしくお願いします。

小祝:山根さん初めまして。以前一度、心の復興プロジェクトのオンラインではお会いしたことがありましたが、今日実際にお会いするのは初めてだと思います。よろしくお願いします。東京にはよく来られるんですか?

山根:僕の出身が東京なんです。なので、実家に戻ったりで東京には来ることがありますね。でも今日こちらのスタジオのある辺りは本当に久しぶりで、結構雰囲気が変わっていてびっくりしました。

島野:それでは山根さん、まずご自身のプロフィールとお仕事のご紹介をいただきながら、双葉町の再スタートに向けて一緒に話を広げていけたらと思いますのでよろしくお願いします。


山根:はい。僕は出身が東京八王子で2010年に大学を卒業後、横浜で映像の制作会社に就職、そのちょうど一年後の、2011年3月11日に東日本大震災がありました。自分にとってあんなに大きな地震は初めてでした。その時に初めて、原子力発電所の存在や電気の仕組みを知り、震災を契機に、社会の仕組みに対してこれまで自分が如何に無知であったかを理解しました。それで、自分の中で社会に大して何か貢献できる仕事ができないか、という思いが生まれました。


小祝:そういう方は当時結構いらっしゃいましたよね。

山根:ええ、そうですね。それで、当時勤めていた会社に退職届を出しました。社長には辞める理由を訊かれたんですが、「福島に関わる仕事をやりたいんだ」と伝えたものの、実は何もあてがなかったんですね。

高崎:そうだったんですね。

山根:当時、弟がソーシャルビジネスの仕事をしていて、宮城県の気仙沼と関わる仕事をしていると聞き、そういった社会貢献に関わる仕事ができる会社を探しました。それで、2012年4月に企業や行政の復興支援事業の企画・運営をする一般社団法人RCFに入社しました。

小祝:へえ、そういった会社があるんですね。

山根:かなり大変な仕事でしたが、そこでプロジェクトマネジメントに必要な経験とスキルを身につける機会を得ました。そこから実際に双葉町と関わることになったのは、2012年12月でした。双葉町からオファーがあり、埼玉県加須市の双葉町役場(旧騎西高校)に訪問したのですが、震災から一年経ってもいまだ残っている避難所を目の当たりにして、震災以来、第二の衝撃を受けました。

島野:そうだったんですね。

山根:その当時、体育館で避難生活を送る町民の方とお話ししたのですが、「双葉町のことをよろしくね」と硬く手を握られたことが今でも印象に残っています。それが、僕にとっての一つの原体験になり、双葉町と関わる仕事がしたいという思いを強めました。その後、双葉町復興支援員の秘書広報課への参画チャンスがあり志願しました。

小祝:それまでは双葉町と関わりは全くなかったんですか?

山根:ええ、まったく縁もゆかりもありませんでした。ですが、チャンスが訪れたので双葉町で働くことを選びました。2013年8月のことでした。ちょうどその頃に、埼玉県にあった双葉町役場が、福島県いわき市に移るということだったので、僕も移住し、委嘱職員となりました。

島野:復興支援員というのはどんな仕事をするんですか?

山根:当時の復興支援員としての僕の使命は、全国約40都道府県にちりぢりになった双葉町の町民コミュニティの維持や発展を支援することでした。そのために情報の収集や発信をすることがまず最初のミッションでした。

小祝:役場の仕事としてですか?

山根:はい。秘書広報課に所属しながら、当初はオンラインなどを使えばなんとか達成できるのではないかと考えていたのですが、その考えは甘かったですね、全くもって無理でした。

小祝:それはどうしてですか?

山根:そもそもオンラインのメディアに触れることが、ご高齢のおじいちゃんおばあちゃんたちにはむずかしかったんですね。そこで最初に立ち上げたのが、「ふたばのわ」という紙の広報誌をつくりました。それまでも町の広報誌はありましたが、申請や手続きについての行政情報多く、町民の顔が見えずらい印象でした。コミュニティをまわって町民の方の話を聞くと、
「情報が届かない」というのは、実際には「知人・友人・隣人の安否が分からない」ということを意味していて、そのことが当時町民にとって大切な知りたい情報だと分かりました。そこで、広報誌とは別に「コミュニティ誌」を作ろうということになりました。

小祝:震災当時は、双葉町の人口はどれくらいだったんですか?

山根:7140人です。ですので最初は、町民の方がどこのコミュニティにいるのか全然分からなかったので色々な人に話を聞いて、自治会などのコミュニティを運営されている方に会いに行きました。

小祝:行政は、町民がどこに避難しているのかは把握はしていなかったんですか?

山根:一人一人把握はしていました。しかし、避難先の地域でそれぞれコミュニティが立ち上がっていたので、それを把握するために県南、県中、県北とあらゆる地域をまわりました。

小祝:その双葉町のコミュニティというのは避難先のそれぞれの地域で自然と生まれたものなんですか?

山根:ええ。地域によって立ち上がりは様々なのですが、いわき市では、民生委員として活動していた方が避難先の町民の方を一人ずつ個別訪問していがのですが、「孤独感を感じている」「双葉町の人と話ができる場が欲しい」という声が多くあり、「それならコミュニティがあった方がいいよね」ということで自主的に町民の皆さんでコミュニティを作られたようです。避難先の地域によってコミュニティの規模は様々でしたが、いわき市のコミュニティは大きく約200世帯ありました。

島野:そうなんですね。

山根:それぞれのコミュニティを訪問していくうちに、コミュニティ同士の横の繋がりを強めていくために、広報誌による各コミュニティをひとつずつ紹介していくことにしました。

2013.12 いわき市の自治会「いわき・まごころ双葉会」

小祝:良い取り組みですし、まさに草の根ですね。

山根:ええ、そうやって町民が情報を共有できるようにというのが最初の仕事でした。

小祝:やはり紙媒体というのは大事ですね。

山根:そのコミュニティ広報誌を立ち上げるときに、支援員という形で席を並べて一緒に仕事をしていたのが現在の妻なんです。

小祝:その恋が芽生えた話をすると、多分今日は時間が足りないですね。

一同:(微笑む)

小祝:奥様は双葉町の方だったんですか?

山根:はい。震災当時、彼女は双葉町にいたので、唯一仕事仲間の中で被災当事者としての経験や思いを聞くことができたので、自分の仕事が町民の方との想いとズレていないかということを確認してもらう重要な存在でした。

小祝:そうだったんですね。

山根:紙の広報誌の発行を始めた後、役場では町民へのタブレット端末の配布が決まり、私は、その導入を支援する仕事を始めたんですが、「配っても使われない」という現状と課題があったんですね。それでいくら便利にしても、使い方を知ってもらい慣れてもらわないと意味がないということで、草の根で地道にタブレット講習をする必要があるなということになりました。コミュニティ広報誌を発行するプロセスで、いろいろなコミュニティとの繋がりができていたので、そこで町民の方に集まってもらってタブレット講習をするという枠組つくりを支援しました。

小祝:紙の情報からオンラインの情報へと進化して、何か変わったことはありますか?

山根:やはり、タブレットを使いこなすためのスキルを育てるということが重要でした。いくらオンラインで情報を出しても、それを受け取るためのスキルアップがないと伝わらないという状況でした。

小祝:町民をオンラインのメディアに近づけた?

山根:ええ、町民の方がオンラインのメディアに近づくことで発信するデジタルコンテンツも活きてくると思いました。なので、町民とオンラインの情報を結びつける動線を意識して、町が主催のタブレット交流会の運営支援をし、掲示板などの機能の説明とどんなことができるのかを地道に説明していきました。そして実際に使ってもらうために、駅伝の選手にメッセージを送るイベントや、フォトコンテストを開催しました。町民の方も積極的にタブレットを使ってくださるようになりました。

小祝:当時は、それぞれの地域のコミュニティをまわられたということですか?

山根:はい、まわっていました。当時は福島県内外に九つの自治会があるんですが、定期的に連絡をして、集まったり交流会をしていました。交流会では、町民の方の現状やニーズを直接聞くことができたので、自分の中で、町民の方のために次に自分は何ができるだろうということも考えていました。

島野:タブレットが配布されてから、紙の広報誌「ふたばのわ」はどうなったんですか?

山根:実は広報誌「ふたばのわ」は2022年2月時点で、100号まで発行されています。

島野:それはすごいですね。

山根:僕が直接制作に携わったのが20号くらいまでですが、その後は広報誌発行を一つの仕事として同僚であった妻に引き継いで継続してもらっていました。そして僕はデジタルでの情報発信というところに移行していきました。

小祝:タブレットによるコンテンツ発信の次のステップはあるんですか?

山根:そうですね。当時はタブレットの使用率もかなり高くなっていたので、Youtubeの動画配信などにも力を入れていきたいと考えました。

小祝:タブレットを使う町民の方の平均年齢はどれくらいですか?

山根:平均年齢は高いと思います。60代くらいではないでしょうか。やはりタブレットを使って参加できるイベントなどがあると積極的に使っていただけるので、そういった場づくりは今も町で継続していますね。

小祝:では、今でもそのオンラインコミュニティというのは継続しているということですね?

山根:はい、そうです。今後はアプリに移行して継続していくのではと聞いています。
島野:タブレットは実際どれくらいの数を配布されたんですか?

山根:2,000台くらいだと思います。世帯ごとに配布していて、80~90%ぐらいの方が利用してくださっていると思います。やはり、配布するだけではなく、使い方を普及するところが大事だと思ってやってきたので、高い使用率になり、町民の方の横の繋がりが増えたのは嬉しいですね。

小祝:そのオンラインコミュニティのオペレーションは誰がしているのですか?

山根:今は福島県内の一般社団法人ONE福島という会社に移行しています。2016年4月その移行と同じタイミングで、より地域に密着した立場で仕事をしたいと思い、僕もONE福島に転職しました。そこではプロジェクトの責任者という立場で3年間従事しました。

小祝:いろいろな変化がありますね。

山根:ええ、そうなんです。支援員を辞めてONE福島に転職した2016年に結婚しました。それまでのRCFでの3年間を振り返ってみると、当時、双葉町には少なくとも30年間は帰れないだろうと言われている中で、支援員をしていたんですね。人からは、いろんな活動をしてきたねと言ってもらえるのですが、当時はどこに向かって自分は仕事をしているのか先行きの見えない状況にあり、自分の仕事の意義を見出すことが難しいこともありました。


小祝:今聞いただけでも、かなりの活動をされていてすごいと思うんですが。当時、双葉町には帰れないと言われていたんですか?

山根:ええ。2016年まではそう言われていました。

高崎:そうですね、帰れないと言われていました。

山根:そういった状況のなかでどれだけこのコミュニティを維持し続けていくかの見通しが立っていませんでした。自分たちの仕事がどこに向かっているのか混沌としたものがありましたし、支援員というのはみなさんに「頑張ってください」と声をかけ続けていくのも仕事であって、町民の皆さんがこれだけ頑張っているのに、これ以上何を頑張らせるんだということに悩んでいました。

小祝:それが2016年に状況が変わった?

山根:そうなんです。2016年にターニングポイントがあって、双葉町に帰れるかもしれないという見解が発表されたんですね。そのときに、自分の今後を決めることになるんです、いわゆる究極の二択、支援員を辞めて東京に戻るのか、もしくは双葉町に人生をかけて生きていくのか。双葉町の再生については100年仕事だと思っていますから、自分に向き合う時間が必要でした。双葉町に帰ることを望んでいる妻との結婚を考えていたこと、支援員としての3年間で双葉町が自分の第二の故郷のようになっていたこと、復興支援のキャリアとして双葉町での経験が自分の自己形成の大きな部分を占めていたことなど、こうした積み重ねや経験を生かしたい思いました。それなら、自分は双葉町で町民として生きていくことを選ぶことがしっくりときました。それが僕の決断でした。

小祝:そうだったんですね。決断されましたね!

山根:2016年に結婚して、そのタイミングでONE福島に転籍し、3年間マネージャーという立場で仕事をしました。その3年間の経験で、双葉町に生業を作れそうな見通しが立ったので、2019年、独立して今の会社を作ろうと決めました。僕はこのときのことを「支援者から当事者へ」という言い方をしています。復興支援というと外部から入ってくるものという感覚ですが、双葉町で会社をおこしてまちづくりに関わることで、復興支援ではなく自分の人生の仕事になった感覚です。自分の人生にとっても、双葉町にとっての意味のある事業をしていきたいです。

続く


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