メタいメタ

先日、FF14内のカフェで他のプレイヤーキャラと話をしていたとき、私の発言について他の人が「メタい」という語を発しており、それが気になっている。
会話の中で「エモい」というのは以前聞いたことがあるけれど、「メタい」というのを聞いたのは初めてだ。
「メタい」とは何なのか。

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因みに、Wikiを引いてみたら意外なことが記してあった。
メタ (OG:μετὰ-)は本来「~の後で」という意味の語だったが、アリストテレスの著書『メタピュシカ Μεταφυσικά』(自然に関するものの後に)が出たのち、そこから「形而上の、高次の、~を越えた」という意味が定着したのだという。英語でその用法が見られるようになったのは1910年代以後らしい。
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M.エンデの「はてしない物語」などは、作中の人物が物語を読んでおり、その人物についての物語を読者が読んでいるという二重のフィクションだけど、これはメタフィクションそのものじゃないか。その言葉を付けて考えたことはなかったけれど。
そもそも、メタフィクションの本質とは何なのか。

「メタい」を調べることから、メタフィクションに関する英語版Wikiの記事へと行き着き、「メタフィクションは、その形式的な自己探求を通じて、人間が世界の経験をどのように構築するかという問題を探求する装置となった」(訳文)という文章を見て、考え込んでしまった。

確かに、自分と世界との関わりについて考えるというのは、フィクションについて考えるフィクションの典型であり(「中観」かっ!)、私の、日々の問題意識の根幹に関わる主題だ。
「メタい」に私がひっかかった理由が分かるような気がしてきた。

ベルトルト・ブレヒト Eugen Berthold Friedrich Brechtの演劇で多用されたという「異化効果 Verfremdungs-effekt」について、英語版Wikiには、「日常において当たり前だと思っていたものにある手続きを施して違和感を起こさせることによって、対象に対する新しい見方・考え方を観客に提示する方法」(訳文)だという解説があった。

その物語に没入して喜びや悲しみを追体験し、抑圧された情緒を解放する。これがフィクションに期待される役割なのだろうけれど、そうして没入している自分を醒めた目線で見ることで、舞台に上がった対象と観客席にいる自らとを分離し、物語を対象化して「気付き」=対象と自分との関わりについての洞察を得る。
これが、メタフィクションの本質なのか。

だとすれば、メタフィクションっぽい≒「メタい」は、「エモい」とは正に対極に位置する言葉だ。
エモい場面で酔いしれているところにメタい言葉を掛けられたら、そりゃあ気分が良くないだろうな。

M.エンデとブレヒトの関わりについては、子安美知子とエンデの対談集「エンデと語る」(1986)で詳しく述べられている。

エンデ曰く、「‥‥作家は読者に教訓をたれる教師だ、といったイメージです。が、私は、そんな創作態度を大いなる思い上がりだ、と断じます。」
これが、エンデから見たブレヒト。

メタは分析的で、エモは統合的。しかし、メタの対象はわかりにくく、エモの対象はわかりやすい。このへんの相反しているところをどう解釈したらよいのかがわからない。
(2023.12.21)

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