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考える、という、迷宮

喉が苦しい。正気か?

先日まで、怒涛のハイ期だった。
そろそろ落ちるかな〜などと思っていたら、案の定なんだよな。

自分の「気」の状態をおおよそ把握していることが、最悪なことだな、と思ってしまうのがこの時期だ。
不調がわかっているのに、自分ではどうしようもないのが本当に辛い。なんでだ。

喉が苦しい。このことがきっかけで、昼飯を食べるのが怖くなった。

結局、無理やり流し込んでも、咳が止まらない。
換気かな、とか、他人と食べるのが無理だったかな、とか、色々な対策を施してみたけど、一切の良好が見受けられず、結局心療内科で漢方薬をもらった記憶がある。
心療内科にも行くのが怖くなって、結局やめてしまったけれど。

心療内科ってどうしてあんなに怖いところなんだろう。
みんな、心療内科で何をしているのか、最後まで結局何もわからなかった。

私は、心療内科に初めて行って、まず驚いた。
こんなに混んでるのか、心療内科。怖い。私みたいに、何かに困りきってしまった人が、こんなに居るんだ、と思って怖くなった。

カウンセラーも受けたけど、結局、自分の気持ちをどう整理していいか、よりも、どこまでどういうふうに話すか、というのが怖かった。
初めましての人に、全部明け渡すのが怖かった。

損な体質だなと思って悲しくなったから、自分と向き合うのは時々にした。
毎週、決まった日に、決まった場所に行くのが辛かった。
なんなら、会社よりも辛かったかもしれない。

もう無理なのに、全てを開け渡せる人がいない。
家族も、難しい。
パートナーなんて、できる気持ちがこれっぽっちもない。
いや、作る気持ちもないが。

なんでだろうなって考えるのも辛い時、そっと支えになるのが「性質」という単語だ。

性質、って、これほど適合していることもないんじゃないかとたまに思う。
これをかざして免罪符にするわけではないけれど、名前がないよりうんとましだ。

名前がないと、不安になる。
これも不思議だ。「これはなんだろう?」の時が、不安。
そういう感情が不思議でならない。

こうして考えて考えて、という道を歩いていると、
大元の悩みを忘れてしまえるので好きだ。

本当は忘れてはいけなかったのかもしれないし、
この考えも私自身のものではなくて、誰かの言葉や小説の一文から出てきたものかもしれない。

実はそんなに難しいことじゃなかったり、
実はそんなに大ごとにするほどでもなかったり、
実は軽視していただけで、凄いことだったりするのかも。

びっくりすることに、こうして書き出してみると、ひどくスッキリする。気づいてしまった。
いっときの安らぎになっているのかもしれない。もしかしたら。

今日も少し考え過ぎてしまった。
これでなんとなくリセットされたかな?

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