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個性の制作

先日、一年ぶりとなる再会を果たした友人がいる。
彼女とは高校の時からの付き合いで、正直一年も会っていなかったことの方が驚きだった。
自分の高校時代の友人たちは、軒並みツイ廃というやつで、TL上ではほとんど毎日顔を合わせているようなものだからだろうけれど。

そんな彼女の家を宿としたその日の晩、徹夜でドラマを一本見た。
驚いたことに、ワンクール分喋り倒しながら見ていた。正直怖かった、日頃日常について話さない反動がこんなところに来ているとは。

その感想をnoteに認め、公開前下書きのリンクを送付した際に、他の記事のタイトルも見てくれたそうだ。
正直、感情の大上振れがきている時か、びっくりするくらい凪いでいて仕方ない時くらいしか文章を生成できないので、恥ずかしいやら申し訳ないやらの感情が多大である。
しかし、どうやら気に入ってもらったようだ。何より。

その時にもらった感想として、『変わっていなくて安心した』という言葉がある。

自分の語彙には、友人たちから好評をいただいているので、本当にありがたい限りだ。
けれど、決して綺麗というわけでも、独自のものだというわけでもない。

自分はいたって平凡で、普遍的で、むしろ俗世間からは二つくらい世界線のズレた人間だと思っている。
標準の世界線にスコープを合わせて暮らすので精一杯だ。

ここに置いてある文章は、脳髄直通の、あまり考えられていないものが多い。書きながら湧き出た疑問を、自分で解決して潰していく方式になっている。
世の中に出すものは、大抵脳内で推敲したものが多いから、自分という鱗片は極力消えているのかなと思っていた。
自我が出ないように規制していた、つもりになっていた。

「上手く言えないけど、あなたらしくていい」
という感情が、自分は好きだ。
個性が生きているような気がするから。

この感情を自分に当てはめることがなかった。
自分の視界には、いつも中心に自分がいない。

しかし、この友人の言葉を受けて、自分にも個性というものは存在していたんだなと思う。
いつからか制作された個性。

個性、性格、その他諸々。この世に似たような言葉は数あれど、どれもそれぞれが違う意味を持っているのが、日本語の難しいところだ。
難しいところは、面白いところでもある。それを上手く咀嚼できるか、できないか。

以前、「自我を出した話をすると、体が震える」というような話を書いた。
これまでの人生の中で、「自分のことを話したいけど、この話を聞いた時に相手がどう感じるか?」を重きに置きすぎた結果だと思う。
改善は、多分できない。必死に治したいと願わない限りは。

また別の話だが、自分には、気のおける友人と呼べる人間が、片手で足りるくらいしかいない。
これは勿論、なんの感情も孕んでいない、ただの現実の話だ。

気のおける友人には、なんでも話せると思っていた。けれど、趣味の話となると、また別らしかった。
自分の人生に関する話とか、仕事の話とか、ありきたりなものはいくらだって話せる。だのに、趣味の話……相手の興味のないものに関しては、殊更ダメだった。苦しい。

自分は、自分の興味のない話でも、相手が楽しそうなら割りかし何でも楽しく話を聞くことができる。相手の理解度やトークスキルにも勿論よるが。
これも、個性なのだと思う。勿論その時間に、話している相手を不快に思ったりなどは、一度もない。

だから、相手も自分と同じ、はずなのだ。
同じ感性の人間しかそばに置いていない。だから、どうと思うこともなく、知らないジャンルの話でも、(いい意味で)適当に聞いてくれるはずなのだ。

だけども、やっぱり、趣味とかいう共感しにくいジャンルは、自分には外に出しづらいものになってしまっているんだな、と感じる。
こういったクローズドな性格は、ある意味、自分で個性を潰しているんじゃないだろうか、ともぼんやり考えた。

自分を曝け出すこと、その全てが個性としてつながってくるわけではない。
色々なものが絡み合ったうえでの「自分」なのだと、頭ではわかっている。

けれども、ああこうと考えてしまうこのこと自体、陶芸家がろくろを回すように、自分もずっと、思考という名のターンテーブルに乗ったままだ。
自分で回り続ける舞台。外には、出られない。

乗る人も、降りる人も、歓迎している。
だから、自分で回っていても、ステージを広げたり、回転を増やしたり止めたり、なんていう柔軟さが欲しいな、と思った。
それこそが、自分にとっての「個性の制作」なのだろう。きっと。

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