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自分の「正しさ」という枠組み

今、猛烈な後悔がある。

過眠症の方が書かれた、ショートストーリーを読んでしまった。
経験談を丁寧に、瞼の裏に情景が映るくらい、描かれた文章だった。
経験を伝えるという意味では、素晴らしい文章だ。すごく。書き手さんの、気持ちが伝わってくるような。

だからこそ後悔した。苦しくなってしまったのだ。

読了後、悲しい気持ちの残る小説もあると知っている。
けれど、自分と同じ症状で、こんなに症状の格差があって、でも人間の感じるしんどさは同じで、同じなんていうけど、そもそも比べるものでもない。

正解はない。それぞれの辛さ、苦しさがある。
けれど世間はそれを許さない。平均をとって、そこから逸脱しているかどうかで判断しているようなふしがある(と、私は思う)

じゃあ、平均のない私たちは、何を正解とするんだろう?

正解はない。知っている、それでも、他人に説明するときに、比較になるような、例えになるような、そういうものが欲しいと願ってしまう。
弱いな、と思った。自分はやっぱり弱い。
弱いことを知っているから、なんとかして自分を保って生きてはいるが、悲しくなるくらいだなと思う。

自分のことなので薄々気がついていたが、完全に鬱の兆候である。
おのれに対しての悲壮感が、比じゃないくらいヤバい。どんなジェットコースターにも負けないくらいのクソみたいな情緒になっている。終わってる。
助かりたいとも思わないが、浮き沈みの波が酷すぎるのだけは本当にいただけない。早く、どうにかしないとなあ。

過眠の時も、早くどうにかしないと、と言い続けて長い年月を経た。
早く「正解」の幸せな箱の中で生きていきたいよ。

「正解」の中が幸せだと思っている、愚か者なのかもしれないけれど。

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