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自分という名の、最強の教祖

自分のご機嫌を取るために、大切なことってなんだろう、といつも考えている。

絶対にそんなはずはないということは、身に染みてわかっている。
けれどどうしても、他人の存在が気になって気になって気になってしょうがない時が、ある。
それが今日。は〜、もう帰りたいが?

というわけで、こういった時、自己暗示をしていくわけだが、この自己暗示が、自分中心だとうまくいかない。
絶対に架空の誰かを作り上げてから望まないと、たいてい失敗してしまう。
悲しいことに、何かを代用として立てないと、なかなか受け入れ難い部分がある。どうしてなんだろうな。
なお、この「どうしてなんだろう」は、悲観ではなく、ごく単純な疑問に値するものである。

さて、自己暗示に用意するものは、もう一人の自分。
ようこそここへ、遊ぼうよパラダイス。また会ったな。
一生世話になる。己のケツは己で拭くのだ。
(ふと今、こういう部分も自己脅迫概念めいていて嫌なところだなと思った。案外日頃思っていても、日頃のふとした記憶なんてすぐに溶けてなくなるものだ)

もう一人の自分は、今の自分より、うんと地位が高い。
地位というのは、マインドレベルの話だ。
心が太平洋ばりに広く、深い。そこにあるのは、慈愛……の時もある、なんの感情もはらんでいない、ただの冷静沈着な第三者としての意識。

『なぜ、そんなにも他人が気になってしまうのか?』
『他人は、あなたを気にしていない。』
『気にしていたとしても、長くじっと見つめるなんてことはない』
『今一度、他人と自分の関係性について振り返ってみようか。仕事以外でなんの繋がりがある?』
『同じプロジェクトを進めているわけでもない。次の会議は月曜のはず』

などなど、事実だけを、淡々と刷り込んでくれるのが、もう一人の自分だ。
自分はその意見を聞き入れて、自分を納得させようとする。もしくは、自分はその意見を正しいと判断し、受け入れることで、改善となると信じる。

それって、ある意味自分だけの教祖になりうるのではないかと思った。

念の為記載しておきますが、
自分は、自分の信念が好きです。

今まで培ってしまった謎の自分理論は、時に失敗したと感じることもあるけれど、それをどう覆して生きていくかとか、過去の思い込みに気づく瞬間、または、その思い込みが当時よりも今の方に当てはまり、うまく利用できていると感じるなど、そういった「自分史」上にある機微が、好きです。

鬱の時も、なんだかんだいって、過去は嫌わずに済んでいるのも、平常時に、こうして改めて、今までのことを振り返ったりできているからなのかもしれない。

振り返りすぎては前に進めもしないので、
こうして時々、落としてきたパンくずに思いを馳せるくらいで良い。
ということは、自分は、「自分史」を宗教としているのかもな。なんて思いました。

あまりに幻想の自分を立ててしまうと、そこには世にも恐ろしい空間ができてしまいそうなので、今、適切な段階に教祖を立てられているのでは?とも。

教祖の手綱も、結局は自分が握っているので
そういう漫画みたいだね。参謀が諸悪の根源みたいな。

でも、そういう「もう一人の自分」は、今の私のバランスをコントロールするという面で、必要不可欠なのだと思う。

とりあえず先週から喉が、というか食道が本気でマズいので、精神をしっかり休めて、というか、こう、生きるのをちゃんとやろうと思いました。

戻らなくても良いから、帰ってこい、生命力!って感じです。

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