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狂ったように合成音声が聴きたくなる周期が来た

自分の中に『周期』がある人間、それが私である。

  • なんでもいいから“音”に溺れていたい

  • アップテンポしか聴けない(逆も然り)

  • ラジオのトーク部分しか聴けない

  • 無音でないと苦しい

そんなマイルールの中にも、ひときわ異質さを放つのが、題にも置いた『合成音声しか聴けない』という周期である。それが、つい最近久々に訪れた。

記憶にある限りでは、ここ2、3ヶ月は“普通”だった。どうしてラジオから聴こえる人間の音声ではなく、人間から採った音声の集約でつくった合成音声のみでなくてはいけないのか、疑問に思ったので書いていく。

まず1点目は、合成音声には感情がないからではないか?という説だ。
人間の音声には感情が乗る。ラジオなどは特に、表情が分からないから、表情を想像させるために音声に表情を乗せている。この“感情”を受け取ること自体が辛い時に、合成音声が聴きたくなるのではないか。

2点目は、合成音声なら聴き流しても罪悪感がないからではないか?という説だ。
どうしても人間の声がすると、拾わなければ失礼にあたる、という気持ちが私の脳内のどこかにある。無意識のうちに、耳が音を拾っていて、そして意味を脳が理解してリアクションしてしまう。そうして、「あらアンタ聞いてたの?」なんて言われるオチである。
しかし、合成音声ならば、別に聴いていようがいまいが、音声はそこに組み込まれた事実などを代弁しているだけのただの音声にすぎないのである。そのため、こちらは無意識下のうちに気張って聴いている必要もない。
もちろん、意図して拾っているときもある。一概にすべてを無視している訳では無いし、合成音声によって作られた解説動画を否定するわけでも、貶すわけでもないことをここに追記しておく。

3点目は、合成音声が、誰のものでもないからではないか?という説だ。
個人特有のものだと、好き嫌いが生まれる。それはもちろんそうなのだが、そこから要らない争いが生まれることだってあるだろう。
しかし、合成音声は、あくまでもベースに人間がいるだけであって(いないときもあるが)改変をされたうえで世の中へ放流されている。例え自分がその声についてどう思ったって、“合成音声というジャンル”が苦手な人もいるよな、なんて考えてもらえないかな、と思っているんだと思う。

思いついたままを書き出してみると、常に見えもしない相手のことを考えているんだなと思った。
見えもしない相手を気遣って生活しているから、妙に疲れてしまうんだろうな、なんてことも思う。

合成音声を聴いている時は、真に「何も考えたくない」時なのかもしれない。

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