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感情の尺度

自分はいつだって、第三者の視点しか持っていないのだと、気が付いてしまった。

自分のことを話すことが苦手だ。
自分の幸せを考えることより、他人の幸せを願っている方が好きだ。
自分の幸せは、どうしてかいつだって刹那的で、儚く朧気てなくなる。
消えてなくなる、というよりは、だんだんと輪郭を失って、朧げになる。
そういったほうが、正しいと思う。

視点はもちろん、一人称視点である。
けれど脳味噌がそうさせない。二人称か三人称。ということは、いつだって自分は、真っ直ぐにものごとを触れたことは無いのかも。

突然のプレゼンテーション。
用意していた資料は、読み手を意識して作成した資料だ。自分が喋ることなど、微塵も考えていない。
でも喋れた。作成者だから当然かもしれないが。

しかし、自分は、ここでようやく、この資料に対しての熱意があったのだ、と気づくことができた。

そして不思議になる。今まで、どういうモチベーションでこの資料に向き合ってきたのだろう。
締切に間に合わせようとするなら、適当に作成して提出すればおしまいだ。読み手に伝わるように、理解しやすく、尚且つ見やすく。そういった部分は、いわゆる「こだわり」の類だと思っていた。

「こだわり」というのは、一番厄介だと思う。
「こだわり」にこだわりすぎていれば、視界を狭める原因になりかねない。

でも、この「こだわり」は、熱意の類だったのだ。資料内に記入したことが、全てだと思っていた。気が付けば、30分経っていた。

終わった後、可決となり、なぜだか泣きそうになった。完全に、何かがバグってしまっている。
チームで行うべきところを、訳あってワンオペ作業していた。期間にして二ヶ月ないくらいだ。自分がずっと、課題に思っていたところ。
それに対して、話を聞いてもらえたことが嬉しいのか、今までと違った”まともな意見”を食らったことで安堵したのか。分からない。感情が。

この、泣きそうになる衝動に名前をつけることができない。
事象に名称を充てる尺度があるなら、今教えてほしいと、切に願っている。
この感情のまま今日を終わりたい。
こんな人間だったんだろうか、自分は。

独りよがりでなかった、という安堵。
ちゃんとした思考が生きていた、という安堵。
この先の凝り固まった世代への絶望。
基盤の不安定さに対する猜疑心。
自分の舵取りへの不安。
全部ある。

分からない。助かりたい。
何から助かりたいのか、分からない。
助かりたいって、そもそも何なんだ。

不意の出来事に弱すぎる。もう今日はまともに仕事できる気がしない。
どこかでスイッチングしなければならない。
がんばります。



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