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僕たちは、思考の止め方を知らない

流石に生きづらすぎないか、世の中?

良くも悪くも現代は、手軽に他人の思考を手に取ることができる傾向にある。
発言するもしないも、その発言を受け取るも受け取らないも、全ては自分の手腕にかかっているのだ。
そのことに気付けるまで、随分と時間がかかってしまったな、と思う。

こう考えたのは、ある出来事のせいだ。
大好きだったジャンルがサービス終了する。あまりにも突然で、タイミングの悪い、本当にいち企業としての判断がそれで良いのか、と問い詰めたくなるような、最悪といってもいい幕引きだった。

だからこそ、自分たちは発信せざるを得ない。
個人の感情。サービスへの思いの丈、運営への憤り、悲しみ、対応の仕方とタイミングへの意見、等々。
壁打ちだけではいられない。ことの発端に届けなければ、また同じ過ちともいえる所業は繰り返されてしまう。

自分は、そのジャンルと既に既に一線を引いていた。
ある時期をきっかけに、ついていけなくなってしまった。でも、それでよかったんだと、だからよかったんだと、今もそう言い聞かせている。

しかし、一線を引いていたくせに、やはり心に残る重大な思い出だったらしい。いまだに、運営へのやるせなさは続いている。ぽっかりと、までは行かないが、ずっと疼くかさぶたのような傷が残った。
だから、他の大きな傷を受けた人々の嘆き、悲しみを見て、「自分はまだ傷が浅いから、この人たちのように大きく嘆くことはできない」と思ってしまった。

けれども、それは特段、何とも関係のない、自分の心持ちによると思う。
対面で誰と話すわけでもない、俺の方が傷ついているのにお前がそんなわかったような口をきくな、と罵られたわけでもない。
自分の心についた傷を、かさぶたレベルだと思い込んでいるのは、他でもない自分自身ではないのだろうか?

冒頭に戻る。
情報社会の中で、情報や意見、ならびに感想などは、至る所にごろごろと転がっている。その情報たちを、どう受け取るか?
他の人の傷と比べて、自分の傷をよく見もせずに過小評価している。それって、他の人の傷は、自分の受け取った情報の上でしか見ることができないのに、どうして自分の傷がその人たちより浅いと言い切れるのか?

傷が浅くたって、深く大きく嘆いたっていい。誰もそれを咎めはしない。小さな傷だって、深いかもしれない。深くなくても大きかったら、それらは平等に、れっきとした”痛み”だ。

痛みの尺度は、他人に推し量れるものではない。
なのに、決めつけてしまう。それはきっと、自分の手腕が下手なのだと思う。

悪い、と言い切ってしまうと、自己否定になりそうで怖い。
下手、というと、今後改善の見込みがある。

悲しい。
書いているうちに、だんだんと自分の思考がクリアになってきた。
自分はただただ、悲しい。好きなジャンルが搾取源として淘汰されていくことが。

綺麗事かもしれないが、世の中はほとんどギブアンドテイクだと思っているタイプだ。
相手が頑張ってくれた分を、こちらも相応のもので返す。

芸能人は、私生活を仕事に大きく振り分けて、自分たちに最高のパフォーマンスを見せる。
その分、自分たちはグッズやライブなどに対価を支払っている。

もちろん世の中はそううまく行かない。
欲が出ると、転売だの何だのと、そういったビジネスに天秤が傾く。
地で王道を生きる人間の方が多いゆえに、そちらが目立ってしまっているのか。はたまた、その逆か。どちらにせよ、そういったものは、与える側と受け取る側、といったやり取りの円環の外にいる人間だとする。

与える側と受け取る側は、ある意味対等だ。どちらかの熱意が、誠意が、何かが欠けたら、瞬間、破城する。
推しのことを推していられなくなる瞬間は、本当に突然訪れる。

だから、与える側が受け取る側を下に見ていると、すぐにわかる。
どうして、自分たちの方が偉い、なんていう高慢な思考になってしまうんだろう。

自分が常に第三者の視点に立つようにしているからか、自分の世界が狭いからか、世の中にはまだ知らないことが沢山あるからか、要因なんて挙げ出したらきっと、星の数ほどあるのだろう。

だから、自分は、考えることをやめられない。
答えの出ないナゼナニだったとしても、疑問を持つことに意味がある、そう思っているから。

考えることは沢山ある。今考えなくていいこと、考えておくべきこと、そのどちらでもないこと。
そういった思考に、簡単に手に入る情報を上乗せしてしまうと、さらに思考はブーストする。

その霧散しているようにも感じる思考たちを、どう制御するか。
それもまた、人生の中での個人ミッションなのかもしれない、と、思った。

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