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偶像崇拝についての思考回路

Vtuberが好き、というか、ひとの配信を見るのが好きだ。
そして、とある切り抜きを見てから、これが”偶像”か……と唸った。

自分の趣味を一言で簡単に表してくれと言われたならば、今は間違いなく即答で、「偶像崇拝です」と言えると思う。

偶像崇拝については、おそらく自分の人生のどこかで、文字に起こしていると思う。
小説の主人公に充てて書いたか、自分の感情のまとめにしたのか、詳細は定かではない。だが、自分がこの「偶像崇拝」という単語をいたく気に入っていて、それでいてしっくりと馴染んでしまったことを、よく覚えている。

偶像とは。
端的にいうと、神仏にかたどって作った像。信仰の対象とする像。比喩的に、崇拝の対象とされるもの
しかし、意味合いとしては、人形の意味を持つ<idol>が先である。
そして、真のものではない別の姿ないし中間に介在するものという意味合いを含んでいる。らしい。

アイドル。
アイドルといえば、現代日本では、歌って踊ってが基本のようなものだ。観客を魅了し、自己を切り売りして生きている。自分たちが求めている、理想の<人形>。

その<人形>が、自分の考えと共感できることを話している。または、自分の求めているもの、ことなどを行なっている。自分と同じもの、似ているものが好き。などなど、いろいろな事由はあれど、共感は信仰になる

もちろんこれは持論中の持論で、世の中には多種多様の思考回路が巡っていることは重々承知している。

話を戻す。共感が信仰になる、というと、共感如きで信仰にまで発展するものかね、と考える。
しかし、その共感をしている<人形>は、いわゆる自分たちのあこがれが反映されていることが多い。この点が、人間をいちばん厄介にさせてしまうのではないかと思っている。

自分たちのあこがれ、というのは、深層心理に関わってくるのではないだろうか。
歴代の「推し」を追っていると、だんだんと趣味嗜好も露見してくる。

例えば、「推し」と呼んでいた人のイメージカラーは寒色ばかりだったとか。
歌がうまくて喋りも上手いが、ダンスだけド下手くそだとか。
自己の世界観があり、それを他者へアピールできる表現力があるだとか。
声が低い方が好き、年下より年上が好き、短髪より長髪を好きがち、などの身体的事由もあるだろう。身体的事由に関しては、逆も然り、といったところか。

こういった趣味嗜好は、あこがれではないのだろうか?
自分にないもの、欲しいもの。この人を、隣人としたら?友人としたら?恋人としたら?
そういった、実現するかしないかでいったら、しない方に天秤が大きく傾いているからこその、強いあこがれだ。

あこがれは、人間の感情の中で、重たい方の部類になると思っている。

嫉妬も、転じる前は「あこがれ」だ。
隣にいるのが私じゃないなんてずるい。売れてるのが私じゃなくてあの子なんて信じられない。あの人は大手に就職したのに、私は……。
「すごいなあ」という「あこがれ」で終われない。それが嫉妬になる。
嫉妬は、重たい感情だ。嫉妬先のことが好きか嫌いかはさておいて、常に嫉妬先のことを考えているようなものだから。
それなら、嫉妬に転じる前のあこがれも、重たい感情だ。となると、「崇拝」と化すのも頷けるのではないだろうか。

さて、ここで冒頭も冒頭、書き出しの話を思い出す。配信者の話だ。
この配信者(Vtuverのていで書くので、これ以降の表記は「ライバー」とする)を見て、なぜ”偶像”だと感じてしまったのか。

勿論これは褒め言葉であるが、悲しみも、怒りも、喜びというものも何もない。以下は、完全に自分の所感と思考をまとめるためだけの文章とする。

偶像と化しているものは、情報の開示が凄まじい。

バーチャルに生きる人間たちは、そのほとんどが、どこかしらの団体に所属していると思う。していなくとも、個人で活動するための、なんらかの努力や背景がある。
そして、こういった”バーチャルの存在たち”は、いまや自分たちにとって、とても身近な存在と化してきている。その中でも、世間でいう「売れている」の状態にあたる彼ら彼女らは、大抵何かがずば抜けて”ヤバい”。

この大変便利な言葉として流通している”ヤバい”という言葉だが、ここでは、いい意味でも、悪い意味でもの”ヤバい”として使う。
企業に所属するライバーは、いい意味での”ヤバい”。そして、その”ヤバさ”のベクトルがとんでもない方向に向いている。
その中でも顕著だと常々感じているのが、「性癖の開示」である。

企業所属であるライバーの初配信には、おおよそ4万人前後の視聴者がいる。(独断と偏見とイメージだが)
その後の活動で、チャンネル登録者数も増えていき、切り抜きも上がる。チャンネル登録せずとも、ファンであるという人々はいるだろう。
そういった人間たちが、そのライバーのことを調べた時に、実にさまざまな情報が出てくるわけだが、そのラインナップの一つに「性癖」が並ぶのだ。

これは、日常の普通の人間(というと大変語弊な気もするが、便宜上こう記す)ではあり得ないことだ。
見ず知らずの人に、初手で「私は手フェチです」などと言って右ストレートを繰り出している。実際はもっとコアなフェチであることなどが多いが。
しかし、本当に仲のいい人でも言うか言わないかのライン上にある<情報の開示>が、数多の人間の興味を惹きつけることもまた事実だ。

そういったわけで、情報があればあるほど、その人の「質感」が分かる。
そうすると、自分と似ているところ、好きなところ、などが見えてくる。
するとだんだん、その人は<崇拝>の対象と化す。

<崇拝>の対象=推し、とは言い切れないが、8割がたはそうなのではないか、と思っている。

だいぶ逸れてしまったが、話を戻す。
つまるところ、バーチャルに生きる存在たちは、<情報の開示>の量と質感がエグいな。という話だ。

本質は至ってシンプルなのだが、ここに至るまでに長考を要してしまった。
概念を模索している時が、世界でいちばん楽しいまである。
あんなの(大変失礼な形容詞だが、あえてこう言う)を擁している大手企業は、なぜここまで<開示>のできる人間を集められて、選び取れてしまうのか、全く不思議でならない。

全くの余談になるが、これも冒頭の、偶像とは?という話を覚えているだろうか。
冒頭では、『端的にいうと、<神仏にかたどって作った像。信仰の対象とする像。比喩的に、崇拝の対象とされるもの>』という引用をしたが、その下の引用のほうが、自分としては納得の意味合いだったため、こちらについて話す。

真のものではない別の姿ないし中間に介在するものという意味合いを含んでいる

真のものではない別の姿、中間に介在するもの。
偶像が持っている本来の、一個人としての姿。それとは違うのが、偶像。
二次元でも三次元でもない、未だ曖昧なメタバースという別の世界、現実と非現実の中間に介在しているのが、偶像。

そう理解しておくと、「偶像も人間なのだ」「ある意味では、同じなのだ」と意識が持てる。
偶像に依存しきってしまうことがなくなる。
そう、思っている。

しかし偶像とは、理想だ。
理想は、光であり、希望である。
光や希望には、縋りたくなる一面がある。

もう一つの世界が構築されつつある今、寒冷地の生物が、その地で生き残るべく生態を変えていくように、人間も進化の時なのかもしれない。

追記

書き出した日から、多分一ヶ月は経ったと思う。
トップの画像を置くにあたって、ふとした疑問が起こったので追記。

偶像崇拝、というと、自分は教会のイメージが浮かんでしまう。
まさに、神を崇めるといった勢い。心酔と傾倒、依存、そういったイメージ。
でも、そのレベルまでくると、すごいことだ。自分の人生の一部に、それを組み込んでしまっているのだから。

「原作の人、そこまで考えてないと思いますよ」なんていうセリフがある。

配信者たちは、自分の好きなことをしているだけ。
こちらを喜ばせようとしているのは勿論あるが、自分単体、個人に向けた発信はない。
それでも、自分たちは、彼ら彼女らを応援するだけの「理由」があるのだ。

他人を惹きつける、そんな力。
それはいずれも、信仰の対象になってしまうんだろうか。
それとも心理学的に、そうなってしまう運命にあるんだろうか?

時間ができたら、いずれ調べてみたいと思った。

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