老子九変説の山王神道への影響について

前回は「四十二巻の兵法書」の一つ『兵法霊瑞書』における老子九変説の受容について紹介しました。その中で、山王神道の教理書である『耀天記』に老子九変説が含まれていることを指摘しました。今回は再び『耀天記』を取り上げ、『耀天記』が老子九変説をどのように受容しているのか紹介します。

山王神道

山王神道は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台宗比叡山延暦寺で成立した神道の流派です。

日枝山(比叡山)では古代から山岳信仰があったと想定されますが、そうした山岳信仰と神道そして天台宗が融合することで山王神道が成立しました。山王神道では山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとされ、「山」および「王」の字は、三本の線と、それを貫く一本の線から構成されており、これを天台宗の三諦即一思想と結びつけて説きました。

最澄が天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子で仙人である王子晋の神格化された道教の神である地主山王元弼真君が、鎮守神として祀られていました。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺の例に倣って比叡山延暦寺の地主神として日吉山王権現を祀り、さらに三輪山を神体とする大神神社から大物主神を勧請しました。

山王神道の成立の歴史については今もなお議論が続けられています。久保田収氏は山王神道の本源的な思想を貞応二年(一二二三年)成立の『耀天記』「山王事」に記載がある本地垂迹説に求め、その後鎌倉時代後期に伊勢神道の刺激を受けて思想が発達し、『山家要略記』により教説が集成されたとしました。一方で岡田精司氏は「山王事」が後世の付加である可能性を指摘しました。

このように、山王神道の歴史を研究する上で『耀天記』「山王事」は無視することができない資料なのですが、一体なぜ「山王事」に老子九変説が取り入れられているのでしょうか。

仏教史としての老子九変説

実は、『耀天記』「山王事」において老子九変説は仏教史の一部として受容されています。

(釈尊が悟りを開き仏教を広めて後)サテ尺尊ハ。中天竺ニ出給ヘドモ五天竺同ク法雨ニウルヲヒニキ。夫ニ震旦国ニハ出給ハザリシカバ。末度ノ衆生申ニヲヨバヌホドノ事也。教法世ニ流布スル事無クバ。争カ化度ノ便リヲ可得クトテ。能々化度利生ノ器量ヲハカラヒテ。迦葉。光浄。月光。三人ノ大士ニ仰付ケ給ケル。善巧ノ御詞コソ目出ク覚侍レ。是ヨリ東ニ一ノ小国アリ。震旦国トナヅク。彼国ノ衆生ハ。根機浅シテ設化ノハカリ事ニ不可叶。心性極テ薄スケレバ。出世ノ機ニモ不能。大法ヲ左右ナク弘メツル者ナラバ。憍恣猒怠ノ衆生ノミ多テ。信ゼズシテ中〳〵アシカリヌベケレバ。汝ダチ彼処ニ先テ生ヲ受テ。凡類ニ同シテ世間世俗ノ礼儀礼節ヲ授ケ。因果ノ理リ善悪ノ道ヲ教テ。機ヲ熟セサセ根ヲ調ヘヲハリナバ。我ガ教法ヲ流布センモ。イトソムカジト覚ル也。利益衆生ノ道然シテ信ゼサスベシ。震旦既ニ如此。十方モ亦然ナリト宣ベ給ケルニ。三人𦬇各尺尊ノ教勅ニ随テ。我モ〳〵ト調機ノ思ヲハゲミテ。即震旦国ニ生ヲ受ケ給キ。迦葉𦬇ハ周ノ宣王ノ御時。魯国ニ生テ老子トイハレ給キ。月光𦬇ハ顔回ト云賢才ノ人ニ生テ。魯国ニ化ヲ施シ。光浄𦬇ハ孔子ト生テ。周ノ霊王ノ御時。顏氏ヲ母トシ叔梁ヲ父ト憑テ尼丘山ノ内ニシテ生ジ給リ。漸二十六歳ニ成リ給シ時キ。父ノ墓ニ行テ四季ノ政ヲ始メ給ケルヨリシテ。世ノ人ハ皆只人ニテハセズト知ニケリ。其中ニ老子ハ知芸ノ長者トシテ。殊ニ被尊重給フ事。三人中ニ第一也。引導衆生ノ方便タレニモ〳〵マサリ給ヘリ。凡モ尺尊出世ノ前後ニ多ク本土ニシテ教勅ヲ受ケテ。九度マデニ賢人ト生テ。多ノ王臣ヲ輔佐シ給ケリ。老子ノ九変トハ是ナリ。(以下略)

『耀天記』「山王事」続群書類従 第二輯下 神祇部

中天竺で出生した釈尊が開いた仏教は五天竺全体に広まりました。しかし、釈尊は震旦国、すなわち中国で出生していないため、釈尊の教えは中国には未だ伝わっておらず、中国の人々は俗世から解脱する優れた法に接する機会を得られませんでした。そこで釈尊は迦葉・光浄・月光の三菩薩に次のように言いつけました。

「ここから東に震旦国という小国がある。その国の衆生は根機が浅いため教化の計画に叶わず、心性が極めて薄いため出世も不可能である。偉大なる法を間違いなく広めようにも、憍恣猒怠な衆生ばかりが多く、教を信じないので難しいだろう。お前たちはかの場所に先に生まれて、凡類と同じ姿になって世間世俗の礼儀礼節を彼らに授け、因果の理や善悪の道を教えよ。そうして機が熟し根が整えば、我が教えを流布する際に間違いがないだろうと思われる。衆生を利益する道はそうして信じさせるべきである。震旦がすでにそのようであるならば、その他の十方の国も同様である。」

釈尊がこう言いつけると、三菩薩はそれぞれ釈尊の指示に従い、我も我もと教化の思いを起こし、中国で生まれ変わりました。迦葉菩薩は周の宣王の時に魯国で老子として生まれ、月光菩薩は顔回という賢者として生まれ魯国で教化し、光浄菩薩は周の霊王の時、尼丘という山の中で孔子として生まれました。孔子は二十六歳になると、父の墓で四季の祭祀を始めました。世の人は彼らが只者ではないと思いました。

この三者の中で老子は知芸が特に優れていたため格別に尊重され、三者の中で第一の者とされました。老子の衆生を導く方便は誰よりも優れ、九度賢者として生まれ変わり、中国の王を補佐しました、と『耀天記』「山王事」では語られています。

中国における道仏の論争

老子・孔子・顔回の三者は古代中国を代表する哲学者ですが、仏教を中国で弘めるために、釈尊の命を受けた菩薩が老子・孔子・顔回として生まれ変わる、などという説話は一見すると奇妙キテレツなものですが、しかしこの説話は中国における道教と仏教の論争の中で生み出されたものであり、東アジアの仏教史を考えるうえで無視することのできないものなのです。
中国に仏教が伝来して多くの中国人が仏教を信仰するようになると、中国在来の思想と仏教のいずれがより優れているのか、という論争が起こるようになり、特に不老長生を求める道教と仏教との間には激しい議論の応酬が繰り広げられました。そうした議論の中で『史記』の「莫知其所終」という記述を拡大解釈し、老子は胡地におもむいて胡人を教化するために仏教をはじめ、釈迦は老子の変化身にほかならない、と主張する老子化胡説が成立しました。

老子と仏教の関係性を推測する説は後漢の時に既に見え、後漢の襄楷が桓帝の奢侈を戒める上奏文の中に、

「又聞宮中立黄老・浮屠之祠。此道清虛、貴尚無為、好生悪殺、省欲去奢。今陛下嗜欲不去、殺罰過理、既乖其道、豈獲其祚哉。或言老子入夷狄為浮屠。」

(『後漢書』巻三十下「襄楷伝」)

とあります。桓帝の時代は仏教が中国に伝来しだした時期でもあり、当時すでに老子と仏がともに宮中で祀られ、そして老子が浮屠(仏陀)になったという説があったことが分かります。

同様の認識は、三国時代の魏に仕えた魚豢の『魏略』「西戎伝」の

「臨兒国、浮屠経云、其国王生浮屠。浮屠、太子也。(中略)『浮屠』所載、与中国『老子経』相出入。蓋以為老子西出関、過西域之天竺、教胡。」

(『三国志』巻三十魏書「烏丸鮮卑東夷伝」裴松之注所引『魏略』)

や、西晋の皇甫謐の

「老子出関入天竺国、教胡王爲浮図。」

(『辨正論』巻五「仏道先後篇」大正大蔵経)

にも見られます。

仏教が中国に伝来した当初、外来の新しい文化を中国に移入するに当たり、仏教を中国人にも理解しやすいものにするために、仏典をサンスクリット語から漢語へ翻訳する際に老荘思想の用語が用いられましたが、こうした工夫が、老子と仏陀を混同する風潮を助長した可能性があります。

西晋から六朝時代以後、仏教と道教の対立が激しくなる中で、「老子と仏陀はどちらが先に生まれたか」という問題が論争の中心テーマの一つとなりました。

西晋の道士王浮は沙門帛遠としばしば論争したが勝つことができず、『西域伝』という書物を『化胡経』に改作しました。

「道士王浮毎与沙門帛遠抗論、王浮屡屈焉。遂改換西域伝為化胡経。」

(東晋・竺道祖『晋世雑録』『辨正論』巻五「仏道先後篇」所収)

王浮が偽作した『老子化胡経』は仏教にたいする道教の優位を主張するものであり、排仏論の有力な武器となり、東晋の頃には『玄妙内篇』『出塞記』『関令尹喜伝』『文始内伝』など類似の書が作られました。さらに、老子化胡説は初期道教の教義に取り入れられ、南朝斉の道士顧歓の『夷夏論』では、『玄妙内篇』の老子化胡説を引いて〈夏〉の宗教である道教の〈夷〉の宗教である仏教に対する優越性を強調しました。唐代には『老子化胡経』は『明威化胡経』とも呼ばれ、ほかに『老子化胡経』(一名『正化内外経』)二巻や、『老子消氷化胡経』一巻、マニ教徒によってつくられた『老子西昇化胡経』一巻、もしくは十巻本の『老子化胡経』などが存在しました。

こうした道教側の老子化胡説に対し、仏教側も様々な反論を行いました。

上述した『晋世雑録』は『老子化胡経』が王浮による偽作であることを主張しました。同様の趣旨のものとして、南朝梁の僧祐が撰した『出三蔵記集』巻十五「法祖伝」の

「又見祭酒王浮、一云道士基公。次被鎖械。求祖懺悔。昔祖平素之日、与浮毎争邪正、浮屡屈、既意不自忍。乃作老子化胡経、以誣謗仏法。殃有所帰、故死方思悔。」

という記事があります。

また、仏教側は老子化胡説を逆手に取って、仏弟子の迦葉らが老子などの中国の聖人に生れかわったという三聖派遣説を唱え、『清浄法行経』『空寂所問経』などの中国撰述の偽経が作られました。『清浄法行経』は天台大師智顕や湛然の著作にも引用されています。

「「山王事」における三聖派遣説の意義」


『耀天記』「山王事」は、日吉山王諸神を叡山の天台の教えを守護する仏の垂迩とする山王神道を理論的に整理したものですが、その本地垂迩説の理論的根拠に『清浄法行経』の三聖派遣説が使われています。

そして、老子九変説もまた本地垂迩説の理論的根拠の一つとされ、三聖派遣説に換骨奪胎されて取り入れられたのです。

参考文献:
森田貴之「慈童説話と護法理論」『京都大学國文學論叢』、二〇一〇年。
鈴木英之「偽経『清浄法行経』の受容と展開 : 日本における事例を中心に」(第十部会,<特集>第72回学術大会紀要)『宗教研究』二〇一四年。
野村卓美「『清浄法行経』の研究 ——三菩薩と三聖人の対応関係再考——」『文藝論叢』、大谷大學文藝學會、二〇一六年。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?