発言には意味がある。

普段の日常生活において、ただ意味もなく話をしているという人はいるだろうか。
他愛もない会話をしてわいわいがやがやと話すことはあったとしても、真面目な話については何らかの意図があって行われている、ということを多くの人が理解できるはずだ。

これは前回、「地鳴りについて。」のノートで書いた「空気を読む」ということについても通じる部分がある。
詳しくは下記を参照にしてほしい。

意図がある。


前述の意図を読み取れないということは相手の言いたいことがわからない、
それはつまり、空気を読めないということである。
どれだけ年齢を重ねようとも意図を理解できない人というのはやはり一定数いるようだ。

私のクラスでは、二学期中間試験を終え、次の進研模試に向けてコース独自の企画の効果もあって、非常に士気が高まってきているものと認識している。
ある生徒は1学期と学習方法を変えてみたことで少しずつ効果を実感してみたり、またある生徒は今まで部活に割いていた時間を前述の企画により勉強に充てることで学習内容の理解が深まったり、というような様子だ。

学習委員を務めている私としてもこれは非常に良い雰囲気であり、ぜひ今後とも続いていくことを願っている。

でもやはり…

しかし、そんな空気感の中にもやはりいるのだ。
場の雰囲気を乱す者が。

私はこれまで様々な方法を用いて彼に警告してきた。

以前クラスLINEにこのような文章を送った。
長々しいので飛ばしていただいても構わない(後にざっくりとした内容は書く)。

学習委員からです。

本日は中間テスト2日目お疲れ様でした。
今自分にできる全てを出し切ってくれているものと思います。

さて、少し長い話をしますが勉強の息抜きにでも読んでみてください。

みなさんは日常生活の中で「空気を読む」ということをどの程度意識しているでしょうか。
日本人は古来より周囲に合わせる、すなわち空気を読むという国民性を持っています。
これはよく言えば協調性があると言えますが、悪くいえば周りに流されるとも言えます。

議論などを行う場面で、誰かが提案したものに皆が賛成し、議論することなく終わったという経験はないでしょうか。
これは先ほどの「空気を読む」が悪い方向に倒れた、周りに流された例の1つです。
こうなった場合、議論は深まらずより良い結果を得られなくなります。
そのため、私個人として議論の際には空気を読まずに意見を言うよう促すことがあります。

しかし、日常生活の会話では空気を読むことが重要視されます。
これは円滑にコミニケーションを進めるためです。
人はどうしても共感を求めたい生き物ですから自分の意見を真っ向から否定してくる人や脈絡なく自分の話をしだす人に好感を持ちにくいです。
したがって、相手がどのような反応を求めているのかを読み取る「空気を読む」ということが必要になります。

ここで一度自らの行動を振り返ってみてほしいと思います。

もし心当たることがあってもそう気を重くする必要はありません。
徐々に徐々に変えていけばそれでいいのではないでしょうか。

ここまで我々の身近にある「空気を読む」について書きましたが、これらは社会に出てからも必要な力であると言えます。
少し言い過ぎではありますが「空気を読めない奴は万死に値する」という言葉があるほどです。

俳句のような数少ない言葉や情景から多くの情報を読み取ることは日本のお家芸の1つです。
コミニケーションにおいては相手の表情や数少ない言葉などから上に書いた相手の求めることを読み取れるかというところに同じような力が求められます。

ただ、これらが完璧にできる人などそう多くはいません。
私自身も完璧にできているとは思っていません。

でも、それでも、社会では求められているのです。

終わりになりますが、この文章はできるだけ客観的に書いたとはいえ、あくまでも私の主観に則っています。
「空気を読む」ということに関して様々な意見があることは百も承知ですが、ぜひ皆さんの意見と照らし合わせ、今後の生活に活かしていただければ幸いです。
また、お時間があればぜひ議論させてください。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

うんざりするほど長い文章である。
今読み返しても全く目眩がしてきそうだ。

ざっくり内容を説明すると、空気を読め、という内容が例示と共に人間の心理を解くことで回りくどく書いてある。
流石に自分でもひどい文章だと思っており、案の定これの翌日、クラスの生徒から次のような助言をいただいた。

「あれでは周りくどすぎる」
「結局おまえは何が言いたいんだ」と。

そして次に送った文がこれだ(プライバシー保護の観点から一部抜粋となっている)。

また、少し話が変わりますが、来週行われるであろうテスト返却についてです。
毎度結果を喚き散らしている小僧がいるようですが「貴様の感想など誰も求めてない」というのが多数派です。
あなたの結果にはあなた自身が向き合えばいいだけであって喚き散らしていただく必要はありません♡

みんなが心地よく過ごせるようにぜひ空気を読んだ行動をお願いします。

これについては少し直接的すぎるかと一瞬躊躇ったが先のメッセージにて効果を確認できなかったため送信に踏み切った。

クラスの生徒からはこちらも案の定「直接的すぎる」「ただの暴論だ」との意見が相次いだが、これは私の最後の警告行動だ、と説明したことで了解を得ることができた。

私は意図を持っている。

ここまで書いてきたように、私は意図を持ってこういった文章を書く。

2つ目の文章については非常に直接的であったことから意図の対象に届いたようだった。
ただ、1つ目では届かなかったようだった。

これは私の文章を書く能力が至っておらず、自分の論をうまく載せられなかったというのも理由の1つだろう。
しかし、あれほど「空気を読む」という言葉を乱用と言ってもいいぐらい多様しているのだからそこに何か鍵があるものだと察することはできないだろうか。

少し話が変わるが、人々がさりげなく言っている言葉の中にも意図が組み込まれていることがある。

例えば授業で先生がやたら口にしていた部分がテストに出た、というような経験はないだろうか。
これには「テストに出すからよく聞けよ」というような意図が含まれているのだろう。

意図を読み取れない危険性。

こういった意図を読み取れるのと読み取れないのでは天と地ほどの差がある。

社会に出て、暗に意図が示されるということはあるだろう。
そんな時に、もし仮にあなたがそれを読み取ることができなかったとしたらどうなるだろうか。

ポジティブな意図があったとしたら別にそれは構わないだろう。
しかし、ネガティブな意図があった場合、それは自分の身を危険に晒すこととなる。

自分の身を危険に晒してもいいというならそれは個人の考えであるから完全に否定することはできない。
そのため私としては「本当にそれでいいのか?」と最後に問うているのだ。
この問いに対して、そのままYesと答えるも考えを改めNoと答えるのもありだ。

ここでじっくりと考え、「最後の質問」の意図を読み取れたのならそれはその人自身の成長だろう。

ここで人を変えるのは難しい、という話を入れたいところではあるのだが、少々長くなってしまうため、またの機会に取っておこうと思う。

結論

さて、今回の本題の結論に入ろう。

日常生活の多くの発言には意図がある。
そして、その中には警告など極めて大切なことが含まれていることがあり、人間関係を築いていく上でそれらを読み取ることはほぼ必須である。

これがすぐに完璧にできればそれはそれですばらしい。
ただこれはとても難しいことだ。
挑戦してもなかなかできないかもしれない。
でも諦めることなく、ぜひ果敢に挑戦してみてほしい。

そろそろ目が疲れてきてしんどい頃だ。
文の構成等まだまだなところが多いが、最後まで読んでいただいたことを感謝する。

また、例に出した文の中に適切でない表現が一部含まれていたことについては深く反省していることを明らかにしておく。

それではまた次回のnoteでお目にかかります。

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