地鳴りについて。

朝晩冷え込みが激しく、近頃は布団から出るのがとても辛いきばたんである。

さて、今回は北國新聞の地鳴り欄にて8月以来、本年度2度目の投稿が掲載されたことについて書いていきたいと思う。

思ったことをだらだら書いていくので、気休め程度に読んでいただければとても嬉しい。

私はどちらかと言えば文章を書くのが好きだ。
中でもこのように自分の思ったことを自由に書くのが特に好きだ。
だから、国語の試験に出るような条件作文であるとか、小論文とかはやや苦手というか嫌いに近い。
しかし、そうも言ってられないのが我々学生である。
まったく早く抜け出したいものだ。

それはそうと先日の地鳴り投稿に触れていきたい。

利権の関係で投稿の写真や文章をここに載せることについては控えさせてもらう。
読んでいない方は10月23日付の北國新聞朝刊をぜひ読んでほしい。

内容としては「空気を読む」ということを中心に現代のコミュニケーションについて論じた。
「空気を読む」ことについてはメリットもデメリットもあり、場面に応じて必要かどうかを的確に判断する能力が必要である、というようにまとめた。

今回この地鳴りを書くきっかけとなったのは身近な人物の影響を受けてだ。

その人物は「空気を読む」ことの能力について絶望的に欠けており、周囲からもやや避けられがちな存在である。
そんな様子を見ていて、今自分の思うことを少し文章にまとめてみようと思ったのだ。

初めに「空気を読む」ことに関して自分の行動を振り返ってみた。

まず普段のコミュニケーションである。
相手の顔色を伺いながら場の雰囲気を乱さないようにしていることが多い。
まさに空気を読んでいる。

次に逆のものについて考えを走らせた。
そこでブレーンストーミングというものについてはむしろ空気を読まないことが大切にされているのではないかと考えた。

ブレーンストーミングとは、何かの案を出すときにより多くの意見を出すために用いられる手法である。
・批判厳禁
・自由奔放
・量より質
・結合改善
という大きく4つのこれらがルールである。
特に自由奔放と量より質という2つにおいては空気を読むということと相反しているのではないだろうか。

これはあくまで一例に過ぎないのだが、やはり議論の場面では空気を読まずに意見を出すということのほうが重要視されているのだ。

ただ、これらの使い分けというのは難しい場面が多々ある。
しかし、使い分けがうまくできないと人間関係を築く上で致命傷を負ってしまうことがある。
だから、今この学生の間にしっかりとその使い分けを学ばなkればならない。

というここまでが地鳴りを書くにあたっての経緯であったり、内容であったりだ。

ここからは「地鳴り」を書くことについて書いていく。

まず地鳴りを書くにあたって私が利用しているのはインターネット投稿である。
北國新聞社のホームページにある地鳴り投稿のページから、必要事項と投稿内容を記入し、送信する。
運がよければその後1週間程度で掲載される。
掲載されれば1000円分の図書カードがもらえるわけだが、書くのにもかなり苦労があるのだ。

というのも地鳴りは400字での投稿が基本となる。
いろいろ書きたいことがあるうえに、できる限り多くの人に理解してもらうための例示と結局何が言いたいのかという論を短くまとめるのは非常に難しい。
そのため、一度書いた原稿を何度も何度も添削したり、言い換えをしたりしなければならず、たとえ元の原稿が10分程度でできても最終的に完成するまで1時間ほどかかることもある。

私が原稿を修正する中で最もよく削るのは例示の部分だ。
例示というのは自分の論をわかりやすく説明するために用いるものであって、その文章全体の中心になってはいけないと思っている(もちろん例示中心の文章展開もその人の文の特色であるから咎めない)。
だから、できるだけ端的に、でも誰にでもわかるように無駄な部分を削る。

そして文末表現には敬体を用いるのが鉄則と言っても過言ではなかろう。
ただ、この敬体も難しいところがある。

私は「〜である」というものを使いがちだが、これはじわじわと字数を圧迫してくる。
そんな時に使うのは「〜だ」である。
前者は3文字消費するのに対し、後者は1文字で済むのだ。
なんと素晴らしいことだろう。
しかし、ずっと「〜だ」が続くのも単調で面白くない。
そのため、適時強調の意を込めて「〜である」も入れるのだが、それをどこに用いるのかというのがこれまた腕の見せ所なのだ。

そして「地鳴り」において最も私が重要だと考えているのは「前向きな考え」で締めることである。
それはなぜか。
新聞を見ている多くの人は朝新聞を読むことになる。
朝から新聞を読んでいて否定的な締まりの文を読んでどう思うだろうか。
少なくとも今日も一日頑張ろううと思える人の割合は少なくなるだろう。
だからこそ新聞社としても採用しにくくなるだろうし、採用されなければ投稿する者として元も子もなくなってしまう。

具体的にどのように前向きに締めるのか。

私がよく用いるのは、「これから〇〇について考えながら生活していきたい」という句形である。
先(未来)のことを見据え、積極的な姿勢を示すことで前向きに締めることができる。
また、そこまで話してきたことを総括する結論としても一定の役割を果たすため、非常に重宝している。

さて、このようにたった1つの地鳴りを書くだけでも様々なことを考えている。
ただこれらはあくまで理想論に過ぎず、全てが完璧にできなければならないというわけでもない。
それぞれが自分の良いと思うものを用いることで、自分自身にしか書けないような文章を作り出すことができる。
そうすれば読む側としても、その人の性格を知ることができたりして、楽しみながら文章を読むことができる。

文章は面白くなければ読んでもらえない。
無論、文章は読んでもらうために書いているわけだから読んでもらえなければ意味がない。

というわけで自分ならどんな文章を読みたいか、仮に文章を書く機会があるとするならば、考えてみるといいかもしれない。

最後に、北國新聞の地鳴り投稿欄のリンクを貼っておく。
ぜひみなさんが普段どのようなことを考えているのか知りたいと思う。
身近にあった出来事や日々のニュースをもとに書いてみてほしい。
紙面で会えることを楽しみにしている。

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