罪を憎んで人を憎まず

仕事の休憩時間に徒然なるままに執筆しております。
読みにくいこととは思いますが、ぜひご一読いただければと思います。

「座右の銘」を持って生きている人もなかにはおられるでしょうが、最近ふと私自身の座右の銘はなんだろうと考えていました。
基本何かを考えながら生活していますし、これまでの経験から培われてる考え方や価値観は持っているのですが、座右の銘とまで言える価値観ってなんだろうと思っていました。

そこでふと思い出した、というか、この考え方は常に無くさないようにしてるなと思ったのが「罪を憎んで人を憎まず」です。
この言葉が先に来たと言うよりも、頭の中で一人でに文章化していたときにそれってこの古事成語で表せるじゃんってなった感じです。

例えば、人身事故で乗る予定の電車の発着時刻に遅れが出たとします。
中には大切な会議や取引先との商談に間に合わず、駅員に怒鳴り散らかすサラリーマンもいることでしょう。というか実際に見たことがあります。

でも私はそこで感情的になれないんですよね。

人身事故にあった当事者が、もし仮にとんでもなく追い込まれていて自殺せざるを得なかったとしたら。
そんなことを考えてしまうのです。

自殺という選択肢しか頭にない人間にとって、自分の死に方ひとつで多くの人に迷惑をかけるなんてところまで考えが及ぶとは到底思えません。
それどころか、そんなにまで追い込まれてしまうまでに誰か手を差し伸べられる人がいなかったのだろうかと考えてしまいます。

だから私は、せめて自分の手の届く範囲(友人や家族)に対してそんな選択肢を選ばなくて済むようにいつでも手助けができる準備を整えておきたいと思ってます。

もう一つ例えを出します。
とある人間がとある別の人間を殺したとします。
勿論倫理的にも法的にも罪人であり、被害者遺族関係者は激昂して当然だと思います。
ですが、ただの第三者である我々が見境なしに否定するのはどうでしょうか。
もし仮に、殺人犯が被害者から常に嫌がらせを受けていたりした場合、その殺人行為自体は許さなくとも、気持ちを汲み取ってあげることくらいはできないでしょうか。

実際に、妻と姑に酷い嫌がらせを日常的に受け続け妻と姑と実子を手にかけた男性がおられたそうです。

例えを二つ出しましたが、要は当事者のバックグラウンドを微塵も理解せぬままに、表面化している事実だけを理由にその人間自体をバッシングしたり攻撃することを、その事象の関係者以外である第三者が容易く行なっていいものかということです。

昨今インターネットの普及で、人々は言論や表現の自由を振り翳し言いたい放題言えてしまう環境があります。
また芸能人の不倫問題から殺人事件等の犯罪事件が四六時中放送され続けています。

そこで感情的にならず、一度発言・表現することを踏みとどまってほしいのです。
どんなバックグラウンドがあってこの事件が起こってしまったのか、当事者はどんな人間なのか、どういう動機があったのが、そこにまで考え及んで欲しいと思います。

ただし、「自分に直接的かつ自分が設ける基準を超えた被害を被った場合」を除いて。

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