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処世術のかわりに失ったもの

ここ数日、わりと落ち込まずに済んでいるため、ここに感情などを吐き出さなくても大丈夫だ。せっかくあまりに未熟で恥ずかしい姿をさらす場所を決めたのに、どうしてこうもタイミングが悪いのか。今はわりと理性的に生活ができている。

ただ、イントロで書いたみたいに、この凪の状態こそ幸福。今の状態がイレギュラーで、嫌なことがあって落ち込む状態をデフォルトに設定した。とはいえ、常に次の瞬間にも訪れるかもしれない不幸になんとなく怯えている。

さて。
少し気分がいいのと、近頃のこの悩ましい生活に一筋の光明を見出すことができていることについて、書こうと思う。

わたしは今、ジャズピアノを習っている。

クラシックピアノは3歳から大学受験でやめるまでずっと続けていた。それだけやっていたのに、大して上手ではないけれど。でもピアノが好きだった。ピアノが弾ける自分が好きだ。素敵な曲を弾けることが幸せであった。

大学時代、上京、就職、妊娠、出産。このあたりはほとんどピアノに触れない生活だった。ときどき無性にピアノが欲しくなって安い電子ピアノを買ったりしていたが、仕事が忙しかったりして弾こうという気にまったくならず、引っ越しのたびに手放し、そしてまたうっかり買ったりしていた。

で、3人目が幼稚園に入るタイミングがやってきた。10年ぶりくらいに、子供がいない午前中がわたしに与えられることにコーフンした。さあ、何をしよう! そこで、まず思いついたのがピアノだった。

1人目を出産してから、しばらくした頃だった。ふらりと聴きに行ったジャズピアニストの演奏会。子連れOKだったから何気なく行ったのだが、そこで演奏してくれたのが、すごく素敵なピアニストだった。

ピアノの譜面台に載せられていたのは、A4のペラ1枚だけ。なのに、それをチラチラと見ながら延々と3分も4分も弾き続けている。「えっ、これどうなってるの?楽譜あれだけしかないよね?」と不思議に思った。ジャズの演奏は、基本のテーマと、それと同じコード進行で自由に即興で演奏していくものだと知ったのは最近のことだ。そしてその人はずっとニコニコ笑って、本当に幸せそうに演奏していた。それがすごく印象的だった。

3番目が入園してしばらくして、私はそのピアニストのことをしょっちゅう思い出していた。そしてその人のブログに書いてあったアドレスに、思い切ってメールを送った。習わせてほしい、ピアノを教えてほしい、あの日の演奏が忘れられない、と。返事がきた。「おうちが遠いですけど大丈夫ですか?」「教えられますよ」と。

うちから電車で2時間以上かかる道のりだった。でも迷うことなく、レッスンを申し込んだ。今、わたしの先生となったそのピアニストのもとに通い始めて3年目になる。

先生の名前を書きたくて仕方がないが、こんな無様な姿をさらけだしているマガジンを見つけられてしまっては目も当てられないので、泣く泣く名前は伏せる。先生は60代の女性で、エゴサなんて絶対しなさそうなタイプだけど。ここでは、大谷先生(仮)としておこう。

ピアノのレッスンといえば、レッスンの日までに、与えられた課題を練習して形にし、それを先生の前で弾いて、OKか否か、ジャッジをうける。間違いや、表現方法など細かな指摘を受ける。そういったものだと思っていた。

けれども、ジャズのベースとして「即興」というのがある。コードを指標として、アドリブで自分の好きな音を紡いでいくというスタイルのジャズは、そういうレッスンのやり方、練習の仕方では成立しない。

もちろん、最初の1年くらいはコードをおさえることで精一杯(今もだけど)。しっかりと練習をしていかないと覚えられない。そして、少しコードを理解してくると、先生は次々と魅惑の課題をだしてくれる。
「今度はこれを4ビートで弾いてみて」
「今度は2周目をアドリブで弾いてみて」
「今度はエヴァンス(ジャズピアニストの巨匠)のアドリブ譜を見ながらジャズのニュアンスを加えて弾いてみて」
と。

幼い頃のこととはいえ、クラシックピアノを曲りなりにも10年以上弾いてきたんだから、わたしにはピアノの素地があると自負していた。しかし、ブランクもあるし、まるで勝手がちがうジャズピアノには数%しか活かせない。先生に言わせると、ピアノはピアノだよと笑われそうだけど。

でも、3歳の子供がひらがなを覚えるように、きほんの「き」から積み重ねていく作業。いくらやっても遅々と進んでいかない感じ。それを自覚すればするほど、あの日の先生の、自由にはばたく鳥みたいに軽やかに演奏するには、いったい何年の月日を費やすんだろう、と気が遠くなった。

ジャズどうこう、ピアノどうこう、という前に、大谷先生は「音楽」を大切にしている。年がら年じゅう、日本各地に演奏をしにいく正真正銘のプロのミュージシャンだ。

コードを鍵盤でおさえるのに未だ必死で、「B7だからシー、レー、ファー…」と教わった理論や法則を元に、頭でなんとかしようとしてしまう私に先生はよく言う。

「音をよーく聞いてね。想像してね。ここが3度とか7度だからって考えないで。シーレーファーラー♪  ほら、歌ってみて。その音を鍵盤の中から見つけ出して。絵を描くみたいに。この色とこの色を合わせたらどんなふうになるかなって、弾く前に想像して」

仕事はもちろん、出産や幼児の育児に関しても、手探りのことはネットで調べたりできる時代だ。そうやって、よくわからないことにテクニカルに解決することを覚えた。原稿を書く仕事もしてきたが、それに関しても、今のように感情を伝えたりすることはなく、もっとテクニカルに書かないといけないシーンが多かった。

迫りくる原稿の締め切り。焦る。でも、文字数にも制限があるから、自分の感情のおもむくままに書いていては到底おさまらない。でも、必要な情報は入れ込まないといけない。かつ、おもしろく・・・・。ハードルが多すぎるし、何を書いていっても直される、といったことも多かった。つまんなくても、とりあえずコレとコレとコレを書いておけばいいや……。つまんない物書きになった。

そんな仕事の生活の中で得たなんちゃって技術は、自然と出産後の育児にも反映されていったように思う。妊娠5ヶ月には、「妊娠5ヶ月」で検索。だいたいあなたの胎児はこんな状態です、といった情報を見て満足する。わかった気になる。お腹が張るときには、「妊娠4ヶ月、お腹の張り」で検索する。

とりあえず、誰だかよく知らない人のよくわからない知識を読んで満足する。満足だけならいいけれど、「そうらしいよ」ってほかの人にも流してしまう。知ったかぶりをしてしまう。

今思えば、胎児の状態なんて、その胎児によるし、妊婦の生活にもよる。もう千差万別のはずなのだ。とりあえずの平均値や、当たり前とされていることに彩られることですっかり安心するくせがついていた。

ピアノを大谷先生に教わるようになって、産後の育児のことをよく思い出すようになった。「今日はよく寝てくれるな」「生活のリズムがつかめてきたぞ」と新生児や乳児の育児をしているとそう思う瞬間がある。でもすぐに「あれ、今日は寝ないぞ?」「なんで、おっぱいを吐くんだ?」と問題にぶちあたる。赤ん坊はすぐに、こちらがようやくつかんだ枠からはみ出して成長してしまう。すごいスピードで。

ピアノも、「ちょっとコードがわかるようになったかも!」と感動した矢先、先生の絶妙に繰り出される課題に直面すると「あれあれ? なんでできないんだ? わかったと思ったのに」と振り出しに戻ったようになってしまう。

やっぱり「見る」「聞く」など五感を働かせるということを、わたしはすっかり忘れてしまっているのだ。赤ちゃんの様子を見る、声を聞く、表情を見る。ピアノなら音をよく聞く、ということだ。そこにしか答えはないのに。うっかりネットの中に答えを求めてうろたえる。そして、なんとなく正解っぽい記事を見つけてわかった気になる。

わたしはそんな適当な生活の中で、大事なものをだいぶ落としてきてしまったのだな、とピアノを始めてからそう思うようになった。

音楽家なら当然である「音を聴く」という行為。ピアノを演奏するなら当然の「音を聴く」という行為が、ジャズやコードの理論にとらわれて、まったくできなくなっているのだ。

感情に耳を傾ける。五感を研ぎ澄ます。よく言われることだけど、大人になって仕事を始めてから自分はそれをあえて置いてきてしまったように思う。これを取り戻すためにはすごい年月がかかるのではないか、と体感で思う。しまったな、と思っている。ラクをしてきた弊害が今更でてきたのだ。

五感を忘れ、感情に耳を傾けることは、昨今の心身の不調は関係ないことのように思える。でも昨今の悩みは主に人間関係であたふたすることを起因にしていることが多く、感情がコントロール不能になっていることを考えると関係なくもないのではないかと。

自分の外側に主体を置いて考えたり表現する癖がついてしまった。だからこうして右往左往しているのだ。人の意見、ネットの意見に、主体を預けてしまっている。

そこで、最近は主体を取り戻すべくトレーニングをはじめた。人に依存しないこと。それはとてもさびしい。でも、こないだ多くの知人が集まる子どものイベントで、なるべく他と関わりあわないように過ごしてみた。寂しいは寂しい。楽しそうに談笑する他者を見てうらやましくもあったけど、自分からはその輪の中に加わらずに居てみた。

もちろん、話かけられれば最低限答えるのだけど。

すると不思議なことがおきた。寂しさを紛らせるためかもしれないが、自分の内面とずっと対話していることに気がついた。あの人とあの人が話しているけど、わたしは寂しそうに見つめているな、とか。でもすごく気楽だな、とも。煩わしくて嫌になっていた人も、そっと見守る距離だとストレスじゃないな、とか。久しぶりに見る人がすごく綺麗になっているな、とか。

今までのように、雑談にあけくれたなら気がつかなかった変化だ。思ってもないことを言って誤解されたな、と後悔することもない。誤解はうまれなかった。生まれたとするなら、わたしがあまり人と関わっていかないから、不思議に思われているかもしれないな、とか、その程度だ。

さみしい自分に耐えられなくなっておしゃべりの輪に混ざりにいくのは難しいようで簡単だ。わたしは一体、どちらをとるべきなのか。さみしい自分を癒すべきなのか。それとも孤独を守ることか。

今、人と接触をもたないのはただの意地っ張りじゃないのか。その側面もぜったいにある。だけど、孤独を保つことで、意外と人に対してネガティブではなくいられたことは発見だった。

自分がさみしがっていること。でも、おしゃべりに没頭しないことで、いろんなことを敏感に観察できたし、必要以上に拗ねたりもしなかった。やりすぎると絶対世を拗ねる人間になることはわかっている。だから、絶対に人と断絶してはいけない。なぜなら、人を通してしかわからないことがあるからだ。

今は、五感を取り戻す時期。それを心に決めている。自分が感じていること、思っていることを素直に受け止めるトレーニングのために、やっぱり今は人と少し距離を保つことにしよう。

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