孤独を覚悟する
月のものが始まり、また「こないだまでの憂鬱はまたPMSの仕業だったか」と、うんざりすると同時に安心もする。全部、PMSのせいだと片付けられる気楽さ。きっとそれだけじゃないけど、そう言ってしまえば、過去のあのグジグジとした自分は仮の姿だと言い訳ができるから。
ここ数年はそうやってPMSや更年期のせいにしてきた。が、絶対にそうではない気もする。というのも、生理が始まって気持ちの調子がよくなるのは、せいぜい初日か2日目くらい。生理中にもかかわらず、またズーンとふかく沈んでしまったりする。
「沈む」という言いかたもすごくシンプル。こういう書き方をしてしまうと自分に申し訳ないくらい。凹む、落ち込む、全部同じね。毎度毎度、違う悩みに対して心が反応しているのに、総じて落ち込むって言ってしまうのは、なんだか自分をしょうもないもんだと決めつけているみたい。
今日は、生理も終盤で、比較的調子のいい朝だ。けれど、落ち込まないように、架空の言葉や妄想で凹まないように、気をつけて生きていくのはしんどい。気をつける、未然に防ぐ、というのが苦手だ。もともと縛られたり、ルールを決められたりするのがとても苦手だ。
苦手、というよりは、ルールというものの前に固まって動けなくなる体質だからだ。守らざるを得ない、そんな空気に抗えない性格。これが、自分の弱点なのかもしれない。人にルールを押し付けられると、なにがなんでも守ってしまう自分の律儀さがどうしようもなく窮屈で、「だったらルールなんていらない、作らないで!」と思って生きてきた。
だから最低限のルールは守って遊ぼうね、という子供に対する大人の姿勢さえも「あ!ルールの話だ!」と思って瞬時に拒絶反応がでる。子供をルールでしばるな!とやたらとその手をはらいのけたくなる。冷静に考えると、危険だからとか、わりと正当な理由があってのルールなのだけれど。
危険だから、と子供のまわりのものを全部あらかじめ排除するというやりかたも好きではない。子供の経験、体験をそぎ落としてしまうからだ。自分がそういう子供だった。「お前のために言ってやってるんやぞ」という父親に返した自分の言葉を覚えている。「それはわたしが決めることや。全部やってもうてから自分で考えるわ!」と。魂から出た言葉だった。だからよく覚えている。
ところで。
ルールは他人から強いられるもので、それをはねつける、というのは自己防衛としては正当な感じはするけれども、果たしてそうだろうか。
結局、他人に依存してはいないか。ルールを課せられたとしても、それを守る守らないはこちらの判断でいいわけだから、「そもそも、あなたたち、ルールを作らないでね!」というのは、結局相手に執着してしまっていることになる。相手にお願いしなければ叶わない願望である。
この執着から私はぼちぼち解き放たれなければならないのかもしれない。自分を縛るものは、ルールではなく、自分だと。かたくなに守ってしまう、堅物で融通のきかない自分と対面しないといけないのだ。そうでないとわたしはわたしを救えない。
どうして、ルールを守ってしまうのか。それが正しいと人に言われたことをまんま受け止めてしまうのか。はずれたくない、嫌われたくない、これに尽きる。集団の中のはみ出しものが怖いのだ。やはり、結局そこに落ち着く。
人の思惑で右往左往してしまうことは、愚かなことだとショーペンハウワーも言っている。それを学んでいる最中だ。そうか、ルールがどうしても苦手という生理的な反応も、結局ここに帰結するのか。今、理解した。
はみ出し者であれ。そういうことか。でも、心の中で「それはむりよ」と言ってしまう自分もいる。だって、仲間はずれに耐えられる精神力はないもの、と。でもそれこそが今、わたしが向き合わなければならない弱点なのだ。
ルールを守る、守らないは個人の自由。それを人に押し付けるのもちがうし、ルールを作るなと人を強制する権利もわたしにはない。でも、自分の生き方として、ルールを与えられても自分の判断で守る守らないを決めていいのだ、とすべきなのだ。
ルールを作ろうとする者に、とにかく反発してイライラもしてきたけど、それはわたしの自由を束縛するものではない。その代わり仲間から疎外されるかもしれないし、集団心理と必ずしも一致することはない。けれど、自分はこうでありたいと思うふうに生きるべきだ。
これは解き放たれる自由な瞬間ではない。これから過酷な生活がはじまる覚悟をしなければならない。ひとり孤独に生きていく覚悟も。ルールを守れない人間はそうなる。でも、ひとり孤独に生きる準備は、この数年でやってきた気がする。周りの人と群れて、戯れにLINEで悪口を言い合って満足してきた。それも悪くなかった。けど、もうしんどくなった。もっと自分は自分と向き合いたい時期にきている。
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