見出し画像

大切にしたいことその⒈「他者への想像力を持つこと」

将来的には有用な情報を発信できるようになりたいですが、まずは個人的な話を自己紹介がてら。

テーマは、これまで人生で見つけた大切にしたいこと2つ。1つめは他者への想像力を持つことについて。

他者への想像力というのは、「個人が知識を活用しながら共感の限界や制限を押し広げて、自分とは異なる他者を理解しようと努める力」です。(私による勝手な定義)

というのも、
・他人は自分とは異なるっていう前提で(当たり前だけど改めて)
・その人に関する情報や今まで身につけた知識を活用しながら
・たとえ共感できないからといってわからない、ではなくて
・はたまた、完全に理解するのは不可能
・だけども、わかろうとする
姿勢、力のことです。

言い換えてみると、他者に関する見えないものを見るように努めたい、表出しているものが全てではないと思いたい(特にネガティブな事に関しては)、というスタンスです。
日常では「思いやり」や「優しさ」という言葉で、これが表現されている場面が多々あります。

なぜこれを大切にしたいと思ったかというと、きっかけは自分の想像力のなさにとてつもない危機感を感じたことと、世の中を見渡すと他者への想像力不足で起きているのではないかと思える事案が見えてきたこと。

一つ目の自分の危機感は、友人に「想像力ないね」と言われた経験が原点にあります。
どんな事象でこの言葉をもらったかは覚えていないけれど、図星だったこともあり、言われた瞬間に反論する暇もなく涙が出てきたフィードバックでした。自分の狭い正義感振りかざして人を傷つけてたんだなあ。と初めて気づき、猛省し、自分の見えるもの・経験したものを越えて人と関わっていきたいと思ったきっかけです。
ときを同じくしてその頃、先生になるのもいいな〜と漠然と思っていた私が受けていた教職の授業で、フィンランドの教育を学んだときに受けた衝撃も影響しています。
勉強ができることこそこの世に存在する価値、くらいに思っていた私が、生きる力を育むために勉強する、そのために個々人に合わせてどんな方法で到達しようか考える、そして、相対評価ではなく絶対評価で子どもを見よう、という無限の可能性を富んだフィンランドの尺度を知りました。先生になろうかなと思っていた自分が、自分が評価されてきた単一の物差しだけを持って未来の子どもに対峙しようとしていたことにぞっとしたのを覚えています。

二つ目の世の中の出来事については、例えば「自己責任論」があげられます。
学習遅滞を抱える子どもに学習支援をするNPOで活動していた時期があるのですが、学校の授業についていけない子どもは勉強ができないことを自己責任とされて自分が教室にいないかのように授業が進んでいき、さらに学習遅滞を抱える(加えて自己肯定感も低下)、という現状を知りました。
もちろん約40人を1人の先生が見る日本の教室で生徒全員に合わせるなんて不可能ですし、先生が生徒を取り残したくてそうしているなんてありえないこともわかります。でも、将来がまだまだこれから長く待っている子どもがこんな早い時期に、勉強できない=自己責任だと片付けられていることに悲しみを感じました。
実際に支援をした一人の生徒は「勉強嫌い、勉強できない、将来はお姉ちゃんのようにコンビニ店員になれればいいかなと思っている」そんな言葉ばかりで、私が気合を入れて準備してきた教材がほとんど刺さらなかったんです。ああ、この子の支援は難しいかな、と思いかけていました。けれども、中間テスト直前の支援日にその子と話していたら不意に「先生、私だって本当はテストで点数とりたい。けれども、学校の勉強がわからない。だれも教えてくれない。」と涙を流しながら訴え始めました。がんばりたいと思っているのに、一度ついていけなくなったらずるずると崖を下るように学校の授業がわからなくなっていく、そんな状況で頑張りたいと思っても自力では難しい。だんだんとがんばりたい気持ちに蓋をして生きてきたのかなと思うと、悔しくなりました。その後、その子の頑張りたい気持ちを形にすべく支援を続けたら、27点だった英語の試験が78点になり、その次には87点になり、90点を取れなかったことを悔しがる姿を見るようになったのです。そして「英語の先生にほめられたんだよね」と誇らしげに報告してくれる姿まで。自己責任ってなんだろう、この子の当初の点数や言動だけじゃ見えない背景があったんだなと気付かされた経験です。

上記は個人的な経験ですが、ニュースで見聞きするバッシング、SNSで叩かれる弱者、、、苦しいくらいに悪い面だけを見て切り捨てられてしまう事象がこの世の中に多くはないでしょうか。

超能力的に相手のことを見抜く、相手の置かれた状況を理解する、なんて絶対にできるはずがないです。たとえ、相手が家族でも、近しい友達でも、パートナーであっても。
ただ、それを踏まえた上で、それでも見えないものを見ようとする力、わかろうとする姿勢を大事にしたいなと思っています。自分が今いる場所を越えてみたり、文化圏を越えてみたり、対話してみたり、自分が変化してみたり、そんなきっかけで他者への想像力を少しずつ持つことができると思います。他者への想像力を持った人や行動が増えたら、社会の歪んだ認知を正すことができたり、優しさが溢れる社会になるんじゃないかなと、信じています。

とはいえ、大人になって一番思うのは、他者への想像力を持つことができない理由はシンプルに知らないから・余裕がないからっていうのが大きいのではないかな、ということです。まず、圧倒的に知らない。世の中に溢れる情報があまりに多く、自分の見たいモノを見るので精一杯。となると、知らないことの方が圧倒的に多い。
場合によっては、見たいモノしか見たくないっていう姿勢もあるかもしれないです。そして、多くの人が自分で精一杯、毎日が精一杯。むしろ自分が傷ついている、苦しい立場にいるということも。
私も人生の余裕がないときに他者なんて想っていられないよ、となりそうなことが数え切れないほどありました。だからこそ、どんな形でも知ることをやめたくないし、余裕のない社会を変えていきたいし、まずは自分で自分を満たして余裕を作って、他者への想像力を発揮する努力をし続けたいなと思うのです。

この方々も他者への想像力と向き合ったり大切にしているんだなと思った、最近の読書で出会った文章たちを紹介します。
ちなみに引用元の2冊とも、私のスタメン本だけを残す本棚に残した素敵本です。

あとがき
自分が見えている狭い世界の価値観と物差しだけで推し測って、自分を含めた誰かを傷つけない優しさと想像力を持ちたいと願う。でも、どれだけ意識しても、自分のなかの「普通」や「正しさ」が顔を出し、意図せず無意識に優しさの仮面を被せた言葉で誰かを傷つけてしまうことがある。ただ一方的に私の経験や未熟な考えを綴ってきたこの本もそうなってしまっているところがあるかもしれない。まだまだ私には無意識の偏見や固定観念があると思うし、優しさと想像力が足りない。
ー『それでも、母になる 生理のない私に子どもができて考えた家族のこと』徳瑠里香

まえがき
自分自身が、自分の生きる社会の主人公になる。すると同じ舞台に立つ隣の人への想像が膨らみ、それまで他人事だったことが自分事として感じられるようにもなる。ごく小さなものだと信じ込んでいたわたしの舞台が、どこまでも広がりをみせていくことに驚きもする。
みんなが隣にいる誰かへの想像力をもつようになれば、まわりまわって思いがけない方向から、誰かがわたしの小さな困りごとを助けてくれる気がする。そういうのってなんだか素敵で、とてもふくよかな社会に思えるのだ。
ー『ほんのちょっと当事者』青山ゆみこ

長々と書いてきましたが、実はもっともっと長々と堅めにこのテーマについて卒論を書きました。題名は『想像力の危機と可能性 「他者への想像力」を涵養する方法を問う』です。
どうして想像力が危機にあるのか、どうしたら想像力を養うことができるか、先行研究を継ぎ接ぎしながら大学生活で学んだことを論として組み立てました。
もし読んでくれる方がいたらご連絡いただけると嬉しいです。PDFファイルをお送りいたします。

画像1

(ゼミの教授からの嬉しかったフィードバック、初めて褒められた!)

以上、大切にしたいことその⒈「他者への想像力を持つこと」でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?