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「きたまり Feedback Movement2020」

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きたまりのダンス歴20年を振り返るnote/ コロナ渦中の2020年「京都市文化芸術緊急奨励金」の採択事業として実施。
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記事一覧

《2008年はダンスの値打ちについて考える》

「きたまり!!トヨタでリベンジしなさい!」という周りの声援のようなプレッシャーのような応援体制に後押しされながら、前年に京都で丹精込めて再創作した「サカリバ007」は年をまたいで大阪・東京・バリ/ジャカルタのインドネシアツアーとJCDN(ジャパンコンテンポラリーダンスネットワーク)「踊りに行くぜ!!」で巡回させてもらっていた。 地域ごとのダイレクトな観客の反応という豊かな栄養をいただきながら、2008年のトヨタコレオグラフィーアワードの最終選考に選ばれる準備を万全にしていた

寄稿/あごうさとし 《きたさんのこと》

きたさんとのはじめての仕事は、2015年、きたさんが企画した「Dance Fanfare Kyoto」のプログラム「SYMPOSION(演出:多田淳之介)」に出演者として参加したこと。 私自身は、この機会に貴重な出会いを得て、その後にも大きな影響を頂いた。きたさんに、なぜこのような取り組みをしているのか、と問うと、「ダンサーの意識を変えたい」という短い言葉が返ってきた。創作者には様々なタイプがある。きたさんは、自らの創造環境のみならず、その背景となっている土壌についても早くか

寄稿/ 和田ながら 《「Dance Fanfare Kyoto」の3年間と「きたまりダンス食堂」の4時間》

きたさんとの現場はエクストリームだ。 2013年から2015年の3年間、「Dance Fanfare Kyoto( http://dancefanfarekyoto.info/ )」という試みに企画・運営スタッフとして参加した。「Dance Fanfare Kyoto」とは、2012年の「We dance 京都( http://www.wedance.jp/2012_kyoto/ )」をディレクションしたきたさんが、「よそ(We danceは横浜の企画)から借りたフレームで

寄稿/多田淳之介 《きたまりとのこと》

初めてきたまりを知ったのは2008年こまばアゴラ劇場での木ノ下歌舞伎舞踊公演『娘道成寺』だったと思う。何しろ12年前だ、とにかく大きな縄に捕まってブランブランしている女性というのがきたまりの第一印象だった、と思う。そしてその一年後の2009年7月、神戸アートビレッジセンターの喫煙所でカラフルな格好をした小柄な女性に突然話しかけられたのがきたまりとのファーストコンタクトだった。 ちょうどその年は我々二人ともセゾン文化財団のフェローシップに選んでもらった年で、彼女の第一声も「多

寄稿/白神ももこ 《きたまりについて》

きたまりとは不思議ととても仲が良い……と思っている。私が勝手に思い込んでいるだけかもしれないが。 しっかりコンテンポラリーダンス界の王道を歩き、自分の「ダンス」というものに向き合いつづけて一本筋が通っている(いや、執拗までに通りまくっている)きたさんと、ダンスからこぼれ落ちて良くわからない脇道を無策に辿って来た私とはそもそも全く違うので、仲良くなることが不思議だったが、こうやってお互い何かの大事な節目に思い出す。多分、年をとっても遠くにいても変わらぬ付き合いがありそうな予感の

寄稿/竹ち代毬也  《きたまりについて》

この原稿をお願いされた時に、きたまりからは出会った頃の話を書いて欲しいと言われました。 はじめて会ったのはダンスボックスが大阪千日前のトリイホールで活動していた時で、ボクは2001年か02年頃に照明の勉強をしたいと思いダンスボックスでボランティアスタッフをはじめました。 その頃きたまりは既にボランティアスタッフとして活動していたのでボクにとっては先輩になります。 お笑いの世界なら「きたまり姉さん」と呼ぶ関係です。 そんな姉さんの印象に残っている事は、「うひょひょい、うひょひ

《2012年の「We dance京都」から》

これははっきり言える。「We dance京都」があって良かった。 前年にOffside Dance projectの岡崎さんの依頼で初めて、ダンスプログラム「We dance2011」(YCC3F 横浜クリエイティブセンター) のディレクションをした。偽りのない踊る身体を見たいという願望がつのり、自身のディレクションプログラム【Deep Body】に声をかけさせていただいた舞踊家は、笠井叡×山田うん、黒沢美香×山田せつ子、室伏鴻という大層豪華な顔ぶれ。しかしながら初めてのデ

《2015年からはマーラーに狂う》

「Dance Fanfare Kyoto」という大仕事をしながらも、ああ私も早く作品(カンパニー本公演)したい!とウズウズしていた。「Dance Fanfare Kyoto」参加アーティストの創作を誰よりも直近でみていたのだ。時折リハーサルを覗きながら、「なるほど〜」私やったらこうするな、ああするなと日々想像を膨らませるような刺激をうけていた。 たくさんの刺激をうけると人はどうなるか。残念ながら生易しいことにもう興味が湧かない。できることではなく、できないかもしれないことを

《20周年の終わりに。ただいま、2021年。》

きづけば2021年3月31日。このnoteも2020年年内に終えるはずだったのに、なぜこんなことに。秋からおそろしく忙しかった。ときどき頭がショートした。 さあ、2021年1月。年が明けて2月に駒場アゴラ劇場で予定していた新作公演【老花夜想】を中止にした。この状況ではしょうがないと決断したのだが、自分でも不安になるくらい落ちこんだ。その落ち込みを回復させるには、踊るしかない。緊急事態宣言発令を受けて、東京公演を中止にしながらも、京都で踊っちゃう矛盾も感じた。もう完全に狂って

《2020年、京都から》

大学入学の際に京都に移り住んだ。古の都も、いまは地方都市だ。 京都はアーティストにとって住み良い所だ。稽古場はある。発表できる場所もある。だけど次につながらない、という絶望的な環境下でもある。次につながるとは何か、ここでのつながるは経済活動に発展するかどうかです。 経済活動に発展しなくても活動は続けられる。けど10代の時からずっと周りのすごい表現をしている人たちが、表現で生活をできないのが謎であった。その謎の仕組みはもうわかっているが、この謎の解決策は見えない。文化芸術でも

《2019年からのメメントモリ》

2019年は1月〈dBアーカイブ・プロジェクトvol.2〉黒沢美香&大阪/神戸ダンサーズ【ジャズズ・ダンス】アーカイブ・プログレス上演 企画運営メンバーとして動いていた。それぞれの想いを抱えて参加した人々と【ジャズズ・ダンス】という黒沢美香の振付作品をアーカイブ化する時間だった。死者は雄弁だ。生きている時よりもずっと多くの問いを、生きている人に残す。 3月【あたご】という舞踊作品を上演した。京都の郊外の地域をテーマに劇場作品を作る企画にオファーをもらい京

《2018年はいろんな地域でおとおどり》

2015年から「RE/PLAY(dance edit)」のアジアでの国際共同制作の為に、プロデューサーの岡崎さんと二人でリサーチの旅に出るようになった。実際に公演をしたシンガポール、カンボジア、フィリピンはもちろん、可能性を探してインドネシア、マレーシアと巡った。どこの国でも劇場には足を運んだ。どんなダンサーがいるかとチェックし、フェスの規模や観客の年齢層や外国人の割合、舞台機構の具合を視察しながら、政治と文化とお金の関係をヒシヒシと感じとり、時折その構図の歪みが見えると、心

《2017年は娘道成寺と木ノ下くんのことを》

大学の後輩が始めた劇団がありまして。その後輩が木ノ下裕一くんというのですが、その子がたいそう古典芸能好きで、それを拗らせてできたのが木ノ下歌舞伎という劇団です。 そんな木ノ下歌舞伎に2007年だかに話があると呼び出されて始まった作品が【娘道成寺】。2008年にアトリエ劇研で初演を行い、こまばアゴラ劇場で上演し、2012年横浜、2013年チリで上演した後に2017年 1月にふたたび、こまばアゴラ劇場、アトリエ劇研で上演し、2018年は松本で、2019年は母校の劇場、春秋座で長唄

《2016年は黒沢美香と多田淳之介のことを》

黒沢美香と多田淳之介は似ている。けど、そんなこと言うのはきっと私くらいだろう。 2012年「We dance京都」のラストを飾る演目は多田淳之介演出【RE/PLAY(dance edit)】、2013年「Dance Fanfare Kyoto」のオープニングを飾る演目は黒沢美香コンセプト【lonely woman】をディレクションした。プログラムを考える際にすぐに顔を浮かべて連絡した。わざわざ関東から呼びよせる必要があった。 両者は私にとっては火種を送ってくれるような、刺