見出し画像

旅が教えてくれたこと (7)  1989年冬、サンフランシスコ

■その1

 プライベートな旅だけが「旅」ではない。ビジネスの旅だって僕にとっては立派な「旅」だ。僕は、ビジネスで海外を訪れる時にも何とかプライベートな時間をひねり出して、自分の好きな場所を歩いて回る。1980年代半ば以降に仕事で何度も訪れ、仕事の合間にあちこち歩き回ったアメリカの都市のひとつにサンフランシスコがある。サンフランシスコは大好きな街だ。
 
 サンフランシスコは、西海岸の穏やかな港湾都市。アメリカ有数の観光都市なので、フィッシャーマンズ・ワーフやゴールデンゲート・ ブリッジなどを訪れた人は多いと思う。古くから移民の街で、アメリカの伝統にとらわれない自由な雰囲気を持っていた。1967年にヘイト・アシュベリー周辺に10万人が集まった「サマー・オブ・ラブ」を端緒に、60年代末にはこのサンフランシスコを中心に「ヒッピー・ムーブメント」が起こり、「ラブ&ピース」を歌うサイケデリックサウンドとともに世界を動かすサブカルチャーとして広がっていった。また、サンフランシスコの近郊にあるバークレーには、西海岸における学生運動やベトナム反戦運動の中心地となったUCLAバークレイ校がある。サンフランシスコ湾の南に位置するサンノゼは、70年代以降のコンピュータ・カルチャーの中心となった。サンフランシスコという都市が持つこうした文化的背景は、僕を魅了して止まない。
 
 1989年の1月、僕はサンフランシスコを訪れていた。目的はMacWorld Expoの視察だ。当時、アメリカでは1月にはサンフランシスコ、そして7月にはボストンで、毎年2回のMacWorld Expoが開催されていた。仕事の関係で、僕はこのサンフランシスコで開催されるMacWorld Expoに1988年から数年間、毎年訪れていた。余談だが、1989年1月7日は昭和64年最後の日だ。正月明けのその日、僕はサンフランシスコにいた。
 
 当時、仕事でサンフランシスコに行く時に定宿にしていたホテルが、セント・フランシス(The WeSt.in St. Francis San Francisco on Union Square)だ。1904年に開業した、ユニオンスクエアに面したサンフランシスコでは歴史と格式のあるホテルの1つである。何を贅沢な…と言う人もいるかもしれないが、当時は現地での商談時に宿泊ホテルを聞かれることも多かったので、仕事ではあまり安いホテルに泊まるわけにはいかなかった事情がある。また、セント・フランシスは当時個人予約でオフシーズンに泊まるとそれほど高くはなかった。いつも旧館に泊まるのだけど、落ち着いた部屋や家具に風情があって、サービスも良かった。年に数回、何年か続けて泊まっていたので、いい部屋が空いていれば頼みもしないのにグレードアップしてくれた。
 これまた余談だが、アメリカにあって歴史と格式を持つ古いホテルで、それほど値段が高くない良いホテルとして、シカゴのザ・パーマーハウス・ヒルトン(The Palmer House Hilton)がある。ここもCESの視察などの仕事でよく泊まったホテルだが、格式のある内装、高い天井のロビースペースが好きだったし、1年越しの宿泊でも「お帰りなさい」と言ってくれるスタッフのサービスも良かった。何度も泊まるうちにいつも部屋のグレードアップをしてくれたのも、シスコのセント・フランシスと同じである。
 
 当時のMACWORLD Expoの会場の周りでは、珍しい周辺機器を展示していたり、ユーザが中古のパーツや周辺機器を売っていたり、まるでお祭りのようで楽しかった。会場では、その月に発売されたばかりの、あのSE30を専用をショルダーバックに入れて肩に掛けて歩いている人を見かけた。アメリカ人は体力があるなぁ…と感心したものだ。ちなみに、当時のアップルの社長はジョブズではない。彼は1985年にアップルを追われており、ジョン・スカリーが実権を握っていた。MACWORLD Expoの基調講演もスカリーであった。

■その2

 さて、金曜日の午前中に仕事の全日程を終えた僕は、日曜の朝の帰国便まで、丸2日間の自由な時間を得た。むろん、サンフランシスコの街を気ままに歩くつもりだ。サンフランシスコは、アメリカの都市としては例外的に公共交通機関が発達している。バスやケーブルカー、BARTや路面電車をうまく利用すれば、行きたいところに行ける。だからと言って、フィッシャーマンズ・ワーフやギラデリ・スクウェア、コイトタワーなどの観光名所に行くつもりはない。僕がまず向かったのは、ヘイト・アシュベリーだ。

 ヘイト・アシュベリーは、ゴールデン・ゲート・パークの東端から程近い場所にある。Haight St.とAshburySt.の交差点を中心とした一帯は、もともとヴィクトリア朝時代に上流階層の住宅地として発展した地区で、今でも当時の優雅なヴィクトリア・ハウスが残っている。僕が訪れた時には、交差点近くにかつてグレイトフル・デッドが住んでいたビクトリア・ハウスがそのまま残されていた。また、90年代にニルヴァーナが訪れた診療所(漂白という曲のきっかけになった)なんかもあった。当時もグレイトフル・デッドのTシャツなどをあちこちで売っており、僕も小さなデッドベアを買った記憶がある。
 ヘイト・アシュベリーを取り巻く文化は、先に触れた1967年に起こった「サマー・オブ・ラブ」に始まる。ベトナム反戦運動、公民権運動の高まりを背景に登場した、ラブ・ジェネレーション、フラワー・チルドレン、後に「ヒッピー」と呼ばれる人たちが作り出した文化ででもある。1960年代後半のヘイト・アシュベリーには、LSDやマリファナなどドラッグ文化の中心地として全米から若者が集まり、1965年に15000人程度だったヘイト・アシュベリーの人口は最盛期の1967年には10万人にまで膨れ上がった。同時にここでは新しい音楽も生まれた。そんな時代に登場して、若者たちの支持 をもっとも集め、「サマー・オブ・ラブ」のアイコンとなったバンドが、ジェファーソン・エアプレインだ。反体制や薬物体験を歌った歌詞などにより、60年代カウンターカルチャーの申し子とも見られた。また、ドラッグカルチャーやライトショウを駆使したステージに象徴されるサイケデリアの時代に、バンドは最初のピークを迎えた。1967年にヒットした「Somebody to Love (あなただけを)」は、当時まだ中学生だった僕の心を何故か熱くした。書店で立ち読みした音楽雑誌で見たグレイス・スリックに憧れた。
 ヘイト・アシュベリーと切っても切れない関係にあるもうひとつのバンドが、ジェリー・ガルシア(Jerry Garcia)が率いたグレイトフル・デッドだ。
 アメリカ最高のライブバンドとして知られるグレイトフル・デッド。日本にもデッドヘッズと呼ばれる熱狂的なファンが多い。1965年に結成されたグレイトフル・デッドのサウンドは、60年代にはアシッド・カルチャー(ドラッグ文化)の象徴としてサイケデリック・ロックなどとも呼ばれたが、実際には初期の頃から、カントリーやフォークなどアメリカン・ルーツミュージックの影響を受けたかなり多面性を持つ曲を提供していたと思う。また、ジェリー・ガルシアはデヴィッド・クロスビーとの関係が強く、CSN&Yのアルバム「Déjà vu」のレコーディングに参加するなどしている。1995年のジェリー・ガルシアの死で終わったグレイトフル・デッドだが、いまだに世界中に多くのファンを持つバンドであり、彼らがロック音楽史上に巨大な足跡を残したことは間違いない。

 ヘイト・アシュベリーの次に訪れたのは、フィルモア・ウェストの跡地。場所は、その名の通り、Van Ness St.とMarket St.の角である。ユニオンスクエアからバスで15分ほど行った「ジャパンタウン」の近くだ。ここには、かつて「フィルモア・ウェスト」というライブハウスがあった。
 正確には、フィルモア・ウェストは、1965年12月にフィルモア・オーディトリアム(The Fillmore Auditorium)としてオープンし(旧フィルモア)、1968年7月5日にカルーセル・ボールルーム(Carousel Ballroom)の跡地への移転に伴って、「フィルモア・ウェスト」と改称して新装オープンした。フィルモア・ウェストと言う場合、一般的にはこちらの方を指す。旧フィルモア(The Fillmore Auditorium)の方は、「フィルモア・ウェスト」のオープン後も別のクラブとして存続し、80年代にはパンクやニューウェイブ系バンドのコンサートなども行われていたそうだ。
 いずれにしても、60年代のアメリカのサブカルチャーを担ったライブハウスとしては、ニューヨークにあったフィルモア・イーストと並んであまりにも有名な場所だ。ビル・グレアムが映画館を改装して始めたライブハウスは、場所を移転して71年に幕を閉じるまで幾多のロックグループによるライブが行われた。中でも名高いのは「フィルモア最後のコンサート」だろう。
 フィルモア・ラストコンサートというアルバムは、フィルモア・ウェストのクロージング・ライブの模様と、伝説のプロデューサーであるビル・グレアムの記録を収めたもの。出演したのはグレイトフル・デッド、ボズ・スキャッグス、サンタナ、ジェファーソン・エアプレインなど、心躍る凄いメンバーだ。そしてこのフィルモア・ウェストでは、1969年にレッドツェッペリンの伝説的なコンサートも行われた。「ZEPPELIN EDIFACE」というライブアルバムは、彼らの最高傑作の1つだと思っている。

 最後に訪れたのは、ウィンターランド・ボールルーム(Winterland Ballroom)だ。場所は、Fillmore St.とSutter St.の角。ここは、フィルモア・ウェストか跡地から程近いところにある。もう10年以上サンフランシスコを訪れていないので現在はどうなっているか知らないが、当時はまだ建物が残っていた。
 ザ・バンドの解散コンサート「ラスト・ワルツ」は、1976年にこのウィンターランド・ボールルームで行われた。コンサートの開始にあたって彼らは「始まりの終わりの始まり」と言ったのは、まさにロックの時代の…と言いたかったのだろう。サ・バンドのラストコンサートに駆けつけたゲストミュージシャンはボブ・ディランをはじめ、ウッドストックの女神であるジョニ・ミッチェル、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ニール・ダイアモンド、ブルースの王様マディ・ウォーターズ、ヴァン・モリソン、Dr・ジョン、ロニー・ホーキンスまでが登場。さらに、ビートルズのリンゴ・スター、ストーンズのロン・ウッド、カントリーのエミルー・ハリスなども出演している。ソウル、ブルース、ジャズ、カントリー、フォークなど様々な音楽形態が渾然一体となった「ロック」という音楽の本質がここにあったように思う。
 また、ウィンターランド・ボールルームでは、セックスピストルズの伝説のラストコンサートやジミ・ヘンドリックスとエクスペリエンス、ジャニス・ジョプリンのライブなども行われた。

 この日の散歩には、おまけがあった。その後ホテルへ戻ろうと歩いていいて、たまたまマーケット・ストリート(Market St.)の南側を歩いていた。2000年代以降はIT関連産業がたくさんオフィスを構え始めた地域だが、当時はあまり治安のよくない、観光客もほとんど訪れない、なんとなく殺伐とした一帯だった。歩いていると、全く偶然にアンセル・アダムズ・センター(Ansel Adams Center for Photography)という建物を見つけた。
 アンセル・アダムズは、サンフランシスコ生まれの写真家だ。登山をやっていたこともあって、彼の撮影したヨセミテ国立公園の写真には、一時期に非常に惹かれた。モノクロ写真で切り取られた、エルキャピタンやハーフドーム、ヨセミテフォールなどの写真は、神々しいような感じさえ受けた。いつだったか、実際にヨセミテ国立公園を訪れてグレイシャーポイントに立った時など、あの雄大な風景を前にして「アンセル・アダムズの写真の方が凄みがあった…」などと考えたことを思い出す。
 アンセル・アダムズ センターはまだ開館しており、何か企画展をやっていたので迷わず飛び込んだ。まさに、そこはアンセル・アダムズに関する写真や資料の宝庫で、とても興味深く館内を見て回った記憶がある。この場所は、1990年代の終わり頃に閉鎖されたと聞いたので、その後は行ったことはない。アンセル・アダムズのオリジナルプリントがたくさん展示してあると言えば、SFMOMA(サンフランシスコ現代美術館)がよく知られている。しかし、このアンセル・アダムズ・センターについては、当時からあまり紹介されることがなかったように思う。

次へ…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?