劇団四季のコーラスラインを見に行った話

久々のnote
特に書くこともなかったので久しく来ていなかったのですが
久しぶりの浮上

※この後コーラスラインについての批評を書きます。ネタバレあり、個人的な意見をずばっと書くので注意

劇団四季のコーラスラインを見てきました!
ざっくりとした説明を

とあるミュージカルのコーラス(バックダンサーや名前のない役をする人たち)のオーディション会場
最終選考に残った人たちに演出家が「履歴書に載っていない君たちのことを知りたい」と言い出す
ダンスを始めたきっかけを話しながらそれぞれのキャラクターたちがさまざまなことを吐露し始める
その中でミュージカルの醍醐味のひとつであるダンスを前面に押し出した作品

ここから、見てきた感想を話していきます



ぶっちゃけ、うーん...という感じでした
単純に自分の理解度がなかったり作品との相性が悪かった感じなのですが

自分は映像であったりを見るときに大事にしている点はストーリーであり、
起承転結のある話の中でどのような展開をしているのか
演出がどうなのかなどをよく見ています

今回のコーラスラインにはあまり、ストーリーに重きを置かれていないなという印象が強かったです
オチが非常に弱いというほうが正しいのかもしれませんが
「え!?これで終わりなの?まだ、終わっていない話たくさんあるじゃん!?」という感じでした
・演出家と元スターのいざこざ
・膝を痛めてしまったキャラクターのその後
・最終選考でなぜそのキャラクターを選んだのか
等々

同じ劇団四季であれば、キャッツにもストーリーというものは存在しないと思っています
でも、私はキャッツ大好きなのです

キャッツとコーラスラインの大きな違いは
「ストーリー性の提起」だと思いました
キャッツは、ストーリーがない前提、ストーリーを提起されていないのでストーリーがなくても気にしなくて見られます
一方でコーラスラインは最終選考の中で「履歴書に書かれていないことを教えてくれ」と問題提起がされます
その時点で作品の物語性が出てしまうのです
ストーリー性が提起されてしまっているのです
問題提起が出された時点で、その問題を作品内で解かなければならないのです
ですが、コーラスラインでは、すべての問題提起に回答せず最終選考の結果を知らせて終わります
作品としてお客さんに問題を投げかけて終わらせている気もするので、何とも言えないのですが
それにしても、すべての問題が宙ぶらりんのまま終わってしまっているのです


あえて明言しますが、「この終わり方が悪だから私はこの作品を全否定する!!!」という意味合いで言っているわけではありません
あくまで、肌が合わなかった理由を提示しているだけです
映画を見るテンションで見てしまっていたからこのようなことを思っているのかなとも思うのですが...

もう一つ「うーん...」と感じた点は、ダンサーたちの独白シーンでした
作品において9割方はこの独白シーンなのですが
全員が一様に「ダンスを始めたきっかけ」を話します
姉がダンスをしていた気づいたら自分も踊っていた
母がバレエダンサーでそれにあこがれた
ここら辺は十分に理解できたのですが

性の話になったところから自分の中でモヤモヤがとても大きくなってきました
セクシャルとジェンダーについての性の話をしていました
あくまで、自分がモヤモヤしてしまったのはセクシャルのほうです
ジェンダーについての告白は人間らしくて好きだなと思う点でしたが

「14歳の時、父親の書庫にあった男女の解剖図に惹かれてしまった。そして私はある日夢精してしまったのです」
ん?
その告白は別にいいんだけど、それとダンサーになった理由と関係性ってあるの?
そこから、思春期についての歌と踊りが展開されるのですが
正直理解できなかった...
思春期における性への執着については何とも思わないのですが(むしろ当たり前の現象で、あえてそこについて作品として扱うのは悪くないことだと思うが)
その内容とダンサーになった経緯が理解できなかった
今改めて思い返すと「思春期という多感な時期に自分を表現する方法としてダンスを知ってそれに魅力を感じた」という意味合いで性を引き合いに出していたのであればまあ、ギリギリ納得はできなくもないかな~という感じ
それにしても、もっといい表現方法があったのではないだろうか
そもそも、あくまで「履歴書に載っていないことを教えてほしい」ということであって「ダンサーになったきっかけ」を話していたわけではなかったのかもしれないが

この作品を作るにあたって実際に当時のダンサーに話を聞いて、不安定な仕事の中で葛藤している話を聞いているらしい
だからこそ、後半繰り広げられる葛藤のシーンは嫌にリアリティがあった
だが、インタビューの中で思春期の頃の話をしているとある中で、どうしてわざわざこういう表現の仕方をしたんだろうか
未熟な自分には理解できなかった...

そもそも、コーラスラインという作品自体が1975年の作品であり
おそらく当時のままの内容で現在も上演している

自分の勝手な思い込みだが
元来より舞台、特にミュージカルというのは上流階級や大人の男女に多く好まれていたものだと考えている
様々な経験をしてきた大人たちに見せるものというのは、往々にして大事な部分を有耶無耶にしてお客さんに考える余地を与えるものが人気である
本来のアーティスティックな部分を売りにしているものが多い印象だ
最近(の日本では)劇団四季では、ディズニー作品を多く扱い、幅広い世代に受けるような演目を行っている
不親切な演目より、わかりやすい演目を上演している
かくいう自分もそういう演目を多く見てきており
舞台(ミュージカル)というのは起承転結のある、ストーリー性がしっかりとあるものだという思い込みをしていたのかもしれない
そんな中で見たコーラスラインにモヤモヤが残ってしまったのは必然だったのかもしれない

そもそも、こんなモヤモヤが残ってしまった一番大きな原因は

「この作品をどういったスタンスで見ていいかわからなかった」

ということなのです

・問題提起された部分を自分の中で解釈して楽しむのか
・ミュージカルの花形でもあるダンスを楽しむのか
・様々な種類のキャラクターを見て多様性を楽しむのか
等々

おそらく、上記の全ての楽しみ方がこの作品にはできて、でも自分がどの楽しみ方をすれば気持ちがいいのか理解できていないからこそ起きてしまったのではないだろうかとここまで書いてきて思う

表象作品に関して、意見が各々違うということはあってしかるべきことで
むしろ自分はそのほうが絶対に面白いと思っているほどである

ここまで、支離滅裂なことを言ってけむに巻いていたが
もちろん、この作品にはいいところが多くあった
最後にその点をサクッと書いて終わりにしようと思う

・演者の立ち居振る舞い
ここに関しては、さすが天下の劇団四季!という感じでした
舞台の奥に鏡があってそこに向かって(我々にはお尻を向けて)ダンスをするシーンがあるのだが
そこから一転してこちら側に向いて再度同じ踊りをするシーンがある
お尻を向けていたシーンの並び順が180度回ってこちら側に展開されるのだが
その立ち位置がいつの間にかきれいに並んでいるのである
なんて自然な動きなのだろうかと偉そうに思ってしまった

・劇場全体を舞台に
舞台のメイキングでよく見るが
舞台稽古をしているときに演出家や監督は我々が座っている座席から各演者に指示を飛ばす
今回の作品では、最終選考ということで実際に演目が行われる舞台上で展開されていた
そのため、演出家の役をしている方がステージから座席の通路を通るシーンが何度もある
そして、各キャラクターの告白シーンでは、我々の座席の後ろから演出家の声だけが聞こえてくる
つまり、座席に座ってマイクをもって最終選考者に向かって話をしているのである
とても簡単な演出方法だが、実際に最終選考をしている場面に自分たちも参加しているという錯覚を起こさせてくれる
憎い演出である

・演出家も葛藤する
演出家が最終選考者に向けて「履歴書に書かれていないことを教えてくれ」と言い出す
そう言われた瞬間に我々視聴者は無意識に「今舞台に立っている最終選考者たちにフォーカスが当たっていくんだ」と思う
当たり前だが、そこに演出家はいない
あくまで作品におけるエッセンス程度の存在になる
この作品では、そんなところで終わったりはしない
物語の中盤に演出家と過去の関係を持つキャラクターが現れる
そのキャラクターの独白によって演出家も葛藤しはじめる
今まで作品のエッセンスだった存在が急にステージの真ん中でスポットライトを当てられるのだ
この展開には、驚かされた
やはり、長年愛され続けている理由はこういった細かい気配りでできているからなんだな~と感じる演出だった

今の自分にとってコーラスラインは正直どこか納得のいかない、モヤモヤが残るものでしたが
いつか、もっと歳を取って人生経験が豊富になったときに見返したら、違った印象を持つのかもしれないと思わせてくれた作品でした

最後までお付き合いいただきありがとうございました
駄文、長文失礼いたしました

また、どこかでお会いしましょう

では、バイバイ~

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