1学期を終えた新人教師が思う最低限のこと

とある公立大学で小学校の教員免許と国際バカロレア教員資格を得た私も小学校現場で教師としての1学期を終えた。

教育とはいつでも理想主義な側面があることは確かである。しかし、現場にでて思うことはそれが存在意義の全てではないということだ。

学士過程でもより良い学びや授業など学に対する思考を鍛えたり、ディスカッションをする機会は少なくない。勿論、教師である以上授業力を鍛え続けることで子どもたちの学びを深めていくことや学ぶきっかけを作ることが永遠の目標であり使命であろう。そのために様々な高度な技術や海外の先進的なプログラムを資格として学んできた。

しかし、今地方の小学校にいて思うことは、それは究極であり「持っている」人たちでなければ通用しない教育であるということである。発達段階や環境要因によって深い思考力以前の子どもたちは五万と存在している。所詮、個々の学力を高めるには、それへの必要性や彼ら自身の興味に帰結する部分が多くを占める。教師や学校教育ができることはそのきっかけをそっと提示することしかできないし、それ以上をするべきではないと思っている。

「これをできないといけないよ」
「もっとやる気を出して、勉強しなさいよ」
「この問題の得点率を上げるには…」
「この問題を解くには…」
これは教師の専門性ではない。兎も角、小学校教員のそれではない。

彼らが必要性を感じたり興味を見つけられるきっかけや環境を提示し続けることが我々が資格を有して仕事をする理由であると思う。そして、学校教育ができることは子どもたちがそれらを見つけたときに向き合うことができる基礎力や社会性を育てることである。

さらに、義務教育の根源は教育水準の一定化であり、どんな背景の子供でも教育を受けられるという義務性を尊重するものである。「持っている子ども」を伸ばすだけでなく、「持っていない子ども」にも学ぶ機会を与えることである。だからこそ、学校に関わる者としての最低限は彼らが健全な社会生活を送れることが何よりである。学力は二の次でも。健全な社会生活(社会に関わる習慣)などの人間力を身につけておけば、自分が夢や目標、必要性を見つけた時にどうとでもなる。社会や他者との関わり方から、生きる力は自ずとついてくるだろう。そうした人間力が学力を築く基礎力へとなると信じている。

だからこそ、1学期を終えた小学校教師である私の最低限の仕事は子どもたちが学校生活を健康的かつ肯定的に送るために傍にいる大人として存在することである。
そのために、2学期からも授業力と指導力を磨いていきたいと思う。それには適度の休暇・リフレッシュとインプットを繰り返すことも続けていきたい。

※ おそらく支離滅裂としている文章があることだろうと思う。就寝前に殴り書したメモを除いた程度に読んでもらえると幸いである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?