見出し画像

研究室にまつわる難しい問題

最近、ふともの悲しい気持ちになる。研究室が〈研究する場所〉の雰囲気ではないような気がするからだ。

わたしの研究室にはコアタイム(何時から何時には必ず研究室にいること、のようなルール)はない。進捗報告のセミナーも年に2回割り当てられるだけだ。特に毎週のグループミーティングのようなものもない。学生はかなり自由にさせてもらっている。

わたしも朝は苦手なので、大学には少し遅くいくことが多い。そのぶん夜の活動時間がほんの少しだけ長めになっている。体調が悪ければ休めるし、授業が忙しければ研究を中断できる。細かい決まりごとに縛られないことで、逆に研究の時間を効率よく使えていると感じている。

しかし、ふと周りを見るともう何日も研究室に来ていない人がいたり、実験しているわけでもなく帰ってしまう人がいたりする。実験していても思うように見通しが立っていないような人がいたりもする。成果はすぐ出るものではないし、わたしもその例外ではないが、研究計画の見通しが立たないのはちょっと問題に感じる。

わたしはかなり研究室に適合している方だし、研究が好きだからそういうふうに思ってしまうのかもしれない。そもそも、他の学生がどうしていようとわたしの知ったことではないし、一介の修士学生の関与するべき問題でもない。すべての学生が研究するために大学や大学院に来たわけではないことも理解している。だから先に挙げたような学生に、わたしが「もっと研究しようよ」と言いたいわけではない。いや本当は言いたいけど、そこまで他者に働きかける気力とかないし、それで人間関係を悪化させるリスクを支払いたくないというのが本当のところか。

でもこういう環境にどこか物足りなさを感じてしまうのは事実で、研究室には実験をしたり教員と話したりする以外の学びもあるはずだと思ってここにやってきたわたしは、逆にちょっと居心地が悪い。

なぜそれがもの悲しいかというと、こういった状況が研究室のゆるふわな制度から生まれているのではないかと感じるから。人間関係とか、雰囲気とかではなく、「ある程度大学に来て、何かしら研究をしよう」という〈縛り〉を与えない限り、研究室の研究がこれ以上(研究という意味で)活き活きとすることはないのではないか、とあるとき思ってしまった。わたしの研究室は基本的には実験系である。実験はやればやった分の気づきがあるだろう。それが前進か後退か失敗かは時によるが、得られたデータをどうしようかこうしようかという思索が巡らされる中で、少しずつ理解が進んでいく。その思索に立ち合いたいというのがわたしの知的好奇心の根底にあるものの一つで、その欠落に対して悲しいと感じるのだとわかってきた。

学生を縛るのは簡単である。たくさんのToDoを与えて監視し、時に学位取得や卒業をカードにしてちょっと脅してやればいい。そういう手段のいくつかを使って研究室を回している例もそれなりに知っているが、外から見ると残念ながらあまりうまくいっていないように見受けられる。査読付き論文という目に見える成果は出ていてもその過程で様々な犠牲を支払っている(ように見える)。

そういう手段を使わずに(わたし自身が縛られると効率が低下すると感じるから)、研究室をもうすこし活性化する方法はないだろうか。なにかうまい相互作用のきっかけを作れないだろうか。もっと面白い話をたくさんしようよ、という漠然とした思いだけがここに漂っている。

わたしがすぐできることはないだろう。せめて何かできるとしたら、わたしが毎日たのしく実験することだろうか、などと思いながらここ最近の日々を過ごしてみている。

1億円くださった方の名前を論文の謝辞に記載させていただきます