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日本デザイン学会に参加して考えたこと

こんにちは🙋🏻‍♀️
常葉大学 造形学部3年の大場心晴です。

6月21日〜6月23日にかけて福岡で行われた日本デザイン学会に2日間、参加しました。
そこでの口頭発表やポスター発表で考えたことをここに残そうと思います。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです🌱

⚫︎参加の目的

🔍 "自分なりのデザインの知を見つける"
これを自分の中のテーマにして、学会に参加した。

「あなたにとっての"デザインの知"ってなんなの?」と先生に聞かれたとき、私は答えられなかった。

プロトタイピングの速さ、報連相の速さには自信がある。
でもそれは"デザインの知"でもなんでもない。

自分の中で、言語化のできていない "デザインの知" のヒントを探そうと思った。

⚫︎近接ってなんだろう

・山崎先生の発表
「都会の人は地域が活性化されていないってよく言うけど、実は地域はちゃんと活性化していて、都会の人が活性化していないと決めつけて地域に介入することで、ただ癒しを求めに行っているだけなんじゃないか」

この言葉を聴き、都会の人が無理やり地域に介入している事例もあるのかもしれないと思った。

地域の人たちからしたら課題にすら感じていないことを、勝手に課題として捉えて、お節介のようなことをしている可能性もあるのかもしれないと思った。
心理的な安心が得られて、でもその中で親しみを感じられるような
程よい距離感での介入=近接なのかな、と感じた。

⚫︎ナラティブアプローチとデザインの手法

・オーガナイズドセッション中のディスカッションでの言葉
「本来のデザインはナラティブアプローチだった」

デザインとは、個々に着目する学問領域であるのにも関わらず、いつの間にかそれが忘れ去られてしまった。

ペルソナ/シナリオを考え、産業の仕組みに依存するようになり、流動的なデザインモードとはかけ離れてしまったことを伝えていた。

手法としてペルソナ/シナリオは習うけど、本来がナラティブアプローチなんだったら、それらの手法って、ナラティブアプローチができるようになるための練習方法にすぎないのかもしれないと思った。

⚫︎わたしの環世界

横溝先生に頼まれて、Info-Dのセッションのポスターを描かせていただいた。

"環世界"をビジュアルに落とし込むことに対する正解が曖昧なままだが、これはおそらく環世界という言葉の表層的な意味しか捉えられていないと思った。

学会の間に何度も聞いた"環世界"という言葉。
どんな生き物にも環世界はあって、もちろん私にも環世界がある。

様々な実践者の方の発表を聴いて、自分の環世界がいかに狭いかがわかった。
家と大学とバイトを行き来する毎日で、自分としっかり向き合ったことがない。知覚・認識できる世界を限定してしまう環境に、自ら身を置いてしまっている

やっぱり、自らの環世界を広げていく力が大事だと再認識できた。

⚫︎学会後、4年生と話したこと

「セッションをグラレコでいざまとめようとした時に、線で区切ったり、丸で囲んだりすることって、自分の主観で物事を分断してしまっているんじゃないか?」という話題が出た。

あれだけ曖昧で、自分たちの知見では掴みづらいセッションの内容を、グラレコとして落とし込むのには不安を感じる。

23日のオーガナイズドセッションで、元木先生が札幌市立大学大学院の伊藤さんの実践に対して、「考察や気づきを綺麗な言葉でまとめることによって、どうしても研究っぽくなってしまっている」とおっしゃっていた。

連続している実践内容やセッション内容を、自分の言葉や解釈によって分断してしまうことが、視野や知見を狭める可能性があることを伝えていると思った。

複雑な内容に対して主観で分断して解釈をしてしまうと、詳細部分の見落としや文脈が掴めないことによる誤解などが生まれるんだと思った。

連続した内容を的確に判断して全体像を把握することが大切だと思った。

⚫︎わたしにとってのデザインの知

冒頭にも書いた通り、学会参加の目的は、自分にとっての"デザインの知"を見つけること。

学会を振り返り、どのセッションでも共通していたこととして、"各々が心を開いて発言することができる環境の必要性"について言及されていた気がした。

・札幌市立大学大学院の佐藤さんの発表
「グラレコではなくオラレコで、共同の場には現れない心の声を含めて記録することで、みた人との共同のアフォーダンスが生まれる。」

・須永先生の発表
「”自分のやりたい”は誰もが持っているが、それができていない現状がある。それができるような環境が教育現場に必要。」

・小早川先生の発表
「誰かができるとできるようになる。参加者が自分のことを語りだすという人と人の発達が影響しあっている。」

・日高先生の発表
「ガイドの方々が、自分で地図をつくり始めた。"何もない"状況が主体的な発見をいざなっている。」

人にはそれぞれ自分の意思や思考があるけど、それを言わずに隠して、慣習モードとして生きてしまっている。

誰もが流動的なデザインモードとして生きることに近づくためには、さまざまな発言が許されるような場が必要で、自分を演じなくてもいいように、心を許せることが重要なんだと思った。

📖クリエイティブデモクラシー
p.97-98

「これまで声をもちえていなかったり、表現をしきれていなかった人々、格差によって力を持ちえていなかった人々、その関係性が書き換わり、互いに学び合い、変わっていくーこの地平が共創の本義です。」

💡「発言をする力や表現をする力を持ちえていない人、自分のやりたいことを言いたいけど言い出せない人、それを無意識に言わないでいる人、そんないろんな人が自分を演じることなく、心を開いて一緒になれる場を考え、つくること」

いろんな方の発表を聞いて、本と合わせて振り返って、これが、"デザインの知"なんじゃないか、そう思った。

私の拙い言語化能力では、あまり深く噛み砕けないが、現時点の私の中でのデザインの知はこれだと思う。
先輩や、先生と対話して、もっと深めていきたい。

⚫︎さいごに

学会に参加して、振り返ってみて、1番強く感じたこととしては、「去年よりも話が入ってくる!」ということ。

去年は本当にさっぱりわからなくて、ただ聞いて記録することが精一杯だった。

学校に住むかのように研究室に入り浸り、先生や先輩と話し、先輩の卒制をのぞいて、なんとなく自分の中に"理解"として落とし込むことができた気がした。

「さっぱりわからない」が「ちょっとわかる」になったのは、自分の中での大きな成長な気がする。

この新しく得た"理解"を、自分の中で解釈するばかりでなく、外に出して話すことで、次の"応用"に繋げていけるようにしたい。

現在は、インターンの選考の真っ最中だ。
本格的な就活はまだ始まっていないけど、今回自分の中でヒントとして見つけることができた"デザインの知"を、今後の就活にも活かせるようにしたいと思った。

そして、デザインモードとして生きていけるような人になるために、まずは、自分がオープンマインドでいようと思った。

周りにいる人みんなが心を開くことができて、デザインモードである人で溢れた環境を作ることができたら嬉しい。


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ここまで読んでくださり、ありがとうございました!⛅️

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