なんか東洋哲学好きなんだよね。

持論ではあるが、すべての宗教が信じられてきたのは、苦しいと感じる世の中を良く抜くすべであったからだったと思う。(社会規範や、文化統制パッケージという側面も当然あるだろうが)

ここ近年仏教の思想を聞きかじることが多くなってきた。なんだか、注目度が上がってきているみたいで。仏教(東洋哲学)に触れる機会は多かったはずなのに、全然知らなかった。色即是空とか毎日言ってたやん。

そこで改めて知ったことは、すごく納得できることばかり。クソみたいな自分がたちなおってきたときに作り替えてきた心と合致することが、多かった。(自分が優れているといいたいわけではない)

空だねぇ

空。生もなければ死もない。すべては幻。すごく納得感、あったんよね。

若かりし頃の、超絶ネガティブな自分の時。
「どうせ俺なんて、~と~と~がイケてなくて、できるわけないやん」
「みんなが俺のことを馬鹿にしてる」
「こんなことしたら嫌い、って、キモい、って思われてるやん」
「こんなこというのは、俺が悪いから?よくないから?嫌われているから?」

ほんの些細なことから、勝手な邪推を広げて、自分の悪いところとつなげて、それをあたかも真実として受け取って、この世の中のことを大嫌いだと思っていた。その時の考えを、答え合わせ的に仮説を聞いてみても「そんなわけないやん」って答えばかり。
そんな答えをもらっても「どうせ慰めるために、嘘ついてるんやろうな」とか、信じれなくて。拗らせ切っためんどくさいやつで、ごめんなさいでした。そして「そんなわけないやん」って言ってくれそうな人だけに言っていたダサさ。
自分で自分のことを飢えに飢えた餓鬼だと当時はおもってた。

そんな自分のことも大嫌いで、その自分を出すことも怖くて、積極的な行動やアクションをとることから逃げに逃げていた。(客観的にはそうではなかったと思うが)「イケてる自分」の瞬間を装い続けていた。

「なんであいつらは積極的に動けるんや?考えられるんや?」と思うことがたくさん。あいつらは尊敬すべき大好きな友人たちなわけだが。
前向きには一切考えられなかったが、自分より大したことないと当時思っている(優越感をむだに持てるところでは持とうとしてたな、、、)人が、自分より積極的に・前向きに何かをやっているのを見た時には

「なんで?」

って思っていた。ちょっとだけ「心の持ちようなんじゃ?」と気づいていた節があったが、とてもそう自分自身で変化できる強さはなかった。


あるとき自分がまえをむいてやらないと、どうしようもない役目を任され
た。自分がやらないと、十数人が共倒れになるというもの。
初めてちゃんと取り組んでみた。その時は「自分がダメ」とか思わなかった。関係ないから。自分が何であっても、やらないといけないから。


その経験をした後、、、、急に心が前向きになり始めた。


「どうせ俺なんて、~と~と~がイケてなくて、できるわけないやん」
「みんなが俺のことを馬鹿にしてる」

そんな自分が、いなくなっていた。

あれ、あんときの悩みは???

そん時に分かった、ほとんどまやかしだったって。悩みも苦しみも、自分が作り出していたものだったって。自分の心が、ありもしない現実を作っていた…
自分が想像しなければ、そのすべての悩みも恐怖も不安もなかった。



今となっては、「空」を実感する初めの出来事だったなぁ、と感じる。










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